この時の事を、わたしは正確に思い出せません。もちろん、年月が経ったということもあります。しかし、それよりはるか以前のことでも、憶えていることはたくさんあるのに、この時の事は断片的にしか思い出せないのです。きっと、これはわたしにとって思い出したくない辛い出来事だったので、わたしの心の防御機能が働き、自分の心を護るために記憶をシャットダウンしているのだと思います。
わたしは事務所に乗り込んでいって、その「わたしとT君が組んで、Nを除け者にしている」という噂について問いただしました。その時の細かいやりとりは憶えていません。ただこの時、職員の一人が「Nさんは意外と気が利くんだよ」と、Nさんのことを擁護する発言をしました。この一言で、わたしは完全に切れました。
その時のわたしにとって、Nさんは「悪」でした。もちろんわたしは「善」です。悪を指向するNさんに同調するだと? あんたら、結局その程度の人間か? おれが目指している崇高な理想が理解できない? これだから世の中は良くならないんだ。どいつもこいつも俗物ばかり。みんなしておれをバカにしやがって!
わたしはその職員に対して、ムキになって反論しました。その内容もまた、憶えていません。ただ、わたしは頭に血が昇っていたので、おそらく感情的な言葉を吐いたはずです。そして次の瞬間、突如として所長が「ミクラスさん!」と、怒号に近い声を張り上げました。わたしはハッとして、所長を見ました。すると普段は温和な所長が、顔を真っ赤にして鬼のような形相のまま、わたしを突き刺すように見ていました。その所長の表情を見たとき、さすがのわたしも、ついに超えてはならない一線を超えてしまったのだということを自覚しました。
「ミクラスさん! 一体何様のつもりだ?! あんたの一番悪いところは、人の話を一切受け付けないところだ! そんなんじゃ人間失格だぞ!」
人間失格?! それは、わたしにとって最高の言葉でした。素晴らしすぎました。その痛烈な一言は、わたしのガラスのようにもろいハートを一瞬で打ち砕きました。そして、統一教会を脱会してから今まで、手探りで築き上げてきた己の牙城が、たんなる幻の城に過ぎなかったのだということを思い知らされました。
わたしは完全に打ち砕かれました。力石徹のアッパーカットを食らって宙に舞う矢吹丈のように、わたしはリングに無残に叩きつけられました。もがきながら立ち上がろうとするわたしを見つめるNの冷酷な瞳。しかし、もはやわたしに立ち上がる気力は残っていませんでした。わたしは跪きうなだれたままで、試合終了のゴングを聞くしかありませんでした。
(つづく)