私がはじめにお経に惹かれたのは祖母のお葬式関係でした
そこでのお経や、地元のお寺とのやりとりからです
母はあそこの住職は少し苦手なんだと言っていましたが、私はその手紙の字から人柄を感じました
実際(私は行けなかったのですが)、地元のお寺さんで四十九日をして、母はよかったと感じたようでしたし、住職さんに対するイメージも変化したようでした
さて、そこからたどたどしいながらも、初七日のあいだお経を読んでみました(もらった紙のとおりに)
今思うとやり方を間違えていた気がするのですが😅
父方の祖母のときはちょうど実家から戻るときに祖母が亡くなってしまったので、初七日をすることができなかった…というより、必要性を感じておりませんでした
そこから四十九日のあいだ、不安に継ぐ不安みたいな夢を見て、そのたびに実家に電話をして、仏壇に何かしたか、ロウソクの位置を変えたか?など尋ねていました
そういうのって自分の想像なのか、それともそうじゃないのかも不明ですし、なんか変な感じがしますし、変な夢を見るたびに四十九日において何日にあたるのかを考えておりました
そこから、四十九日って大事なのかなと考えるようになりました(父方は禅宗系、母方は密教系というか真言宗です)
母方の祖母はもう浄土に行くのは間違いないとなんとなく思っていたので、そこは心配していなかったのですが(なぜなのかはあとで知りました)、両親と自分のためにもチャレンジしよう、と思いました
さて、そんなチャレンジをしたことも忘れてしまったようなある日、まあ人生は苦しいですねって状態に立ちました
私は長い間鬱でしたので、二十代の頃、食べても食べても腹が減るのは地獄じゃないか、賽の河原の石と同じではないかと友人に話して笑われたことがあります
でもやっぱりそうだよね、とこちらの法話であの頃の笑われた自分が肯定された気分で少し嬉しくなりました
そして苦しみも腹が減るのと同じである、と言われ腑に落ちました
ちなみに今はかなり回復したのか、ご飯が美味しいです!特に野菜が食べられると幸せです!
次に、なんとはなしにこの動画を見ました
これがとてもよかったので、こちらも見ました
月輪観的なものを真似してみて、光明真言が好きになりました
そしてこれをやりやすいようにと追及していったらお念珠があるといいな、となっていったのです(ヒンドゥー系のジャパ瞑想をよくしていたので、数をとりたい、とれるとより集中できるな、という感覚です)
そうしているうちに三密についての法話を聞き
この二つの法話から、身口意のバランスというか、そういうものが大事と学びまして
一つ目の法話では、やる気はあるのに行動にうつせないというのは身口意のバランスが悪いよね、どれかが変だよね。やる気(意)はあって、行動できない(身)なら、あいだの口が変なのかもね、ということ
二つ目の法話では、同時に、口は良い言葉を使う心がけなどで清めることができる、そこから身と意も清められるよね、ということ
つまりご真言をお唱えすれば口を清めていくというわけですが、そこを意識すると日々溜めていく汚れも気になってきます
そこから、懺悔をしなければ意味がないのではないか?となりました
どうにも説明が難しいのですが、懺悔しなければ意味がないと感じたのです
というわけで、現在ではいわゆる勤行を式次第にのっとってやってみています
そこまで大げさにするつもりは最初はなかったのですが
三密とともに三毒(貪瞋痴)も勉強しました
そしてその三毒に対するドンピシャリなアンチドートがたくさんあるのだと分かりました
そのためには懺悔をしなければならない、そんな感覚です
自分的には「すべての苦しみは過度の執着からくる」というヒンドゥーの教えもふむふむと思っていますが、それに対する効果的なアンチドートというのはなかなかない…というより、執着そのものが毒というより、必要なのは程度を下げることであり、本質的に解毒剤というのは存在しないのかなと思います
それを貪瞋痴にまとめた知恵(あえてこの漢字で)はすごいなあと思います
この概念によって、解毒もできるからです
その効果もすぐ実感できますし、こうしたら人生はよくなるよなーとも思えます
こういうすごく腑に落ちる感覚は、日本人だからなんだろうなあというか、おそらく日常的に接してきた、日本の文化なのだなあ、とも感じたのでした🙏