【東大教室】ブログ上公開演習➐-3(解説)の続きです。

問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➐-1(問題)で確認してください。

 

演習➐ 近代(総合)

無産政党と社会体制

 

解説

 

四角グリーン1920年代後半の政治状況

 

ここまで、1920年代後半の経済や社会の様子をみてきたが、設問に「この時期の経済・社会・政治の状況にふれながら」とあるので、「政治の状況」についても考えておきたい。

 

この点については、問題文にある第1回普選が実施された時期に焦点をあてて解説を加えておく。

 

1925年、陸軍の長老田中義一を総裁に迎えた立憲政友会革新俱楽部を合併したため、第1次加藤高明(護憲三派)内閣は分裂状態に陥った。

すでに記したように、第1次若槻内閣崩壊後の1927年に政友会総裁として首相に就任した田中義一は、陸軍中枢で要職を歴任し、また会員数300万といわれた帝国在郷軍人会の組織化にも尽力した人物だった。

 

田中義一内閣のもとで金融恐慌の鎮静化が図られたのち、1928年、衆議院が解散され、初の男性普通選挙が実施された。

 

この総選挙では、労働農民党など無産政党労働者・小作人など「無産階級」の利益擁護を目的に結成された合法的社会主義政党の総称)から8名の当選者が生まれた。

また、非合法活動を余儀なくされていた日本共産党(1922年結成、1926年再建)も、機関紙『赤旗(せっき)』を創刊したり、無産政党の候補として党員を立候補させたりするなど、活動を活発化させた。

 

こうした政治情勢に対して、田中内閣は、共産党員とその同調者の大量検挙をおこない(三・一五事件)、治安維持法の改正と特別高等課(特高)の全国への組織拡充により弾圧体制を強化していく。

 

治安維持法には最高刑を死刑または無期刑とするなどの改正が加えられたため、運動への威嚇効果は格段に強められた。

つづいて1929年、政府は残された共産党幹部の一斉検挙を実施した(四・一六事件)。

 

これらの措置を通じて、戦前の共産党は壊滅的といってよいほどの打撃をうけることになる。

政党内閣期の推移

 

四角グリーン問題の考え方

 

さて、ここであらためて問題を眺め直してほしい。

「無産勢力の議会進出」と「体制の安定」との関係を論じることが、本問の要求である。

 

くりかえしになるが、1920年代後半の日本は、それまでの急速な産業発展や都市化進行の結果として、著しい格差社会を形成しつつあった。

多数派の庶民の生活は決して楽なものではなく、天皇への直訴が「1928年には……未遂も含めて10件」も発生するほどだった。

 

一方、既存の政党(立憲政友会・立憲民政党)は、地主層などの支持を調達することで長く政治活動を展開してきた歴史をもち、また財閥との結びつきも深かった(政友会→三井、民政党→三菱)。

男性普通選挙制の実現によって有権者数が一挙に4倍になったことも、選挙資金の確保といった点で、政友会や民政党が財閥などとの関係を一段と密にする要因になったと考えられている。

 

つまり、既成政党が庶民の意見をも代弁して国民政党(包括政党、catch-all party)化すると期待するのは困難だったのである。

 

政友会・民政党の性格が変わらなければ、多数派の庶民はみずからの意向を政治に反映させるルートを遮断されてしまうことになる。

社会に対する不満という不気味なマグマが、地下深くに着々と蓄積していくかもしれない。

無産政党が(現体制をくつがえさない範囲で)議会に進出すれば、こうした閉塞状況の改善をいくらかは助長してくれることになるのではないか――。

 

このような発想は「革命の安全弁」などと呼ばれ、政治の世界では「安全弁」的な考え方にたった政策がしばしば立案・実行されている。

第二次世界大戦後の冷戦下で形成されたいわゆる「55年体制」も、結果としては、壮大なガス抜き装置として機能したと判断してよいだろう。

 

解 答

1920年代後半には長期不況下で金融恐慌が発生して経済格差が拡大し、社会主義の影響力も強まった。一方、男子普選は実現したものの、富裕層の利益代表という系譜をもつ既成政党は財閥とも深く結びついていた。このため、無産政党が議会に進出して困窮する労働者や小作人の不満を代弁すれば社会の融和に有効だと考えられた。

(150字)

 

 

にほんブログ村 教育ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ にほんブログ村 受験ブログへ にほんブログ村 受験ブログ 大学受験(指導・勉強法)へ