*「03東大日本史本試Ⅲを考える①」の続きです。
*問題は「東大教室(03東大日本史本試Ⅲ 問題)」をご覧ください。
第3問 近世(総合)
歴史書の編纂と「中華」意識
解説②
■設問B 17世紀後半の東アジア情勢
設問Bも、問題文のヒントと設問の限定に従って思考を重ねていけばよい。
まず、「この時期(17世紀後半)の東アジア情勢」についていえば、最大の変化は明清王朝の交代ということになるだろう。
世界史を選択していない受験生もいると思うので、簡単に王朝交代の過程をまとめておく。
17世紀前半、中国東北部に居住していた女真人(満州人)はヌルハチ(清朝初代皇帝)のもとで統一を果たし、国号を清(1616~1912)とした。
一方、すでに衰えの激しかった明は、反乱が相次ぐなかで1644年に滅亡する。
以後、清の支配領域は中国全土におよんでいくことにはなるが、満州人の支配に対する抵抗も根強かった。
たとえば、明の遺臣鄭成功など反清勢力の拠点となった台湾の攻略に清がようやく成功したのは1683年、17世紀末のことだった。
17世紀全体をとおしてアジア全域を揺るがした明清交代劇に関する日本側の関心は高く、たとえば林鵞峰・林信篤(鳳岡)父子は、長崎に来航する中国船からの情報を編纂して『華夷変態』と名づけている。
そこには、「中華」である明から「夷狄(いてき)」である清への変動、という意味が込められていた。
さらに、反清勢力から日本への救援・援軍要請があったり(幕府は応じず)、明滅亡前後の時期には日本への亡命者が生じたりした。
亡命知識人の代表例が朱舜水で、彼は徳川光圀に招かれて、『大日本史』の編纂を開始していた水戸学派の学者と親交を結び、また山鹿素行らの儒学者にも大きな影響を与えた。
■設問B 幕府が作り上げた対外関係
次に、もう一つの問題の限定「幕府が作り上げた対外関係の動向」について考察しなければならない。
これはいいかえると、いわゆる「鎖国」下の対外関係の動向ということになるだろう。
まず、➊通信国(朝鮮・琉球王国)と通商国(オランダ・中国)、➋「四つの口」=長崎口(幕府直轄、オランダ船・中国船が来航)、薩摩口(薩摩藩が琉球王国と交易)、対馬口(対馬藩が朝鮮と交易)、松前口(松前藩がアイヌと交易)、という観点から、基本的な関係のあり方を整理しておいてほしいが、ここでは、その背後にあったものを探っておく必要がある。
江戸幕府の創出した「鎖国」体制とは、キリスト教を排除(禁教)して対外関係を統制することで、自己を中心とした周辺諸国・諸地域との安定的・固定的関係を構築するという性格をもつものだった。
近年、それは海禁政策の発動だったととらえる見方が一般化している。
海禁政策とは、伝統的な華夷秩序を背景に中国人の私的な海外渡航を禁じた政策のことをいい、14世紀後半から明によって本格的に実施された。
明と同様の海禁政策が具現化すれば、それは必然的に、自国を中心とする華夷的秩序を編成・形成しようとする意識をも生じさせる。
これを「日本型華夷意識」などというが、この傾向は朝鮮やヴェトナムでもみられたものだった。
図 日本型華夷秩序
■設問B 問題の限定を接合する
最後に、問題の限定「この時期(17世紀後半)の東アジア情勢」と「幕府が作り上げた対外関係」を接合させてみよう。
幕府の構築した「鎖国」体制によって「日本型華夷意識」が生じているところに、明清王朝の交代=「華夷変態」が重なったのである。
日本の儒学者たちは、中国=清を「夷狄」とみなす感覚を強めた。
「日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや、王朝の交替がなかったこと」などを根拠に、彼らが、日本こそが「中華」であるという意識を強めても、もはやそれほど不思議なことではないだろう。
解 答
B明清交代により長期かつ広範な華夷変態が生じる中で、幕府は実質的海禁政策である自国中心の鎖国体制を構築して通信国・通商国を明確にした。このため清を「夷」とみなす優越意識が高まった。
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