問題は、「一橋大論述新研究77(13-Ⅲ 問4)」で確認してください。

 

解 説

 

60年安保闘争を正面からとりあげた問題。

ここでは、岸信介の半生を振り返りつつ、論述すべき内容とその周辺について解説を加えたい。

 

岸信介の戦後

 

東条英機内閣で商工相などを務めた岸信介は、戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、およそ3年間の獄中生活を送ったのち不起訴・釈放になった。

まもなくすると政界での活動を活発化させ、1953年、実弟佐藤栄作(信介は中学3年の時に父の実家である岸家の養子になった)らの工作で自由党から総選挙に出馬して当選。

以後、保守勢力のなかでの地歩を急速に固めていく。

 

保守政党の左派と革新政党の右派が交錯するような二大政党制を主張していた岸は、1955年の保守合同を主導し、自由民主党の初代幹事長に就任した。

翌年、鳩山一郎首相が日ソ国交回復を花道に引退すると、自民党次期総裁選びは、岸・石橋湛山・石井光次郎(みつじろう)3者の公選となり、第1回投票で岸は1位になったものの過半数に及ばず、決選投票では2・3位連合が成立して7票差で敗れ、石橋新総裁が誕生した。

 

岸は、この時のことを「私は、はたが思うほど敗北にはこだわっていなかった。……特に衆議院段階では過半数が私に投票したと確信している。いつの日か私が国家の安危を双肩に担う日が必ず来る、という自信ができた」と回想している。

そのチャンスは、石橋首相の病気退陣により意外なほど早くめぐってくる。

 

空前の政治運動

 

1957年2月、岸内閣が成立した。

同内閣の最大の課題は、いうまでもなく日米安全保障条約の改定である。

 

改定作業は、60年安保闘争という空前の大衆的政治運動を生みだすことになる。

その過程を簡潔にまとめると、次のようになるだろう。

 

まず岸内閣は、安保改定への布石として、日本の立場の強化をめざす東南アジア歴訪や将来の政治的混乱をにらんだ警察官職務執行法(警職法)改正などにとりくんだ。

外交面では比較的順調だったが、内政面では警職法改正失敗に象徴されるように、社会からの反撃にしばしば直面した

 

この過程で、東条内閣閣僚・A級戦犯容疑者という岸のもつ負の印象が人々の記憶に呼びおこされていく。

 

次に岸内閣が直面した壁は、自民党内の錯綜した派閥争いだった。

反主流派からの攻勢をうけて、内閣は幾度となく動揺をみせる。

政局の展開を微視的に眺めれば、岸内閣最大の弱点は、国会登場から4年弱で首相の座に就いた岸に、余裕のある党内運営をおこなうだけの基盤が不足しがちだった点になるだろう。

 

安保改定過程で批判にさらされた強引な政治手法は、時間の欠如を主因とするリーダーシップの未確立によってもたらされた。

 

最後に、当時の革新勢力にとって、安保は本来「重い」課題だったことを指摘しておく必要がある。

その情勢が急転するのは、内閣が新安保条約(日米相互協力及び安全保障条約)批准案を衆議院で強行採決した1960年5月19日以降のことである。

全野党欠席下での採決が議会制民主主義擁護の声を一挙に高め、そこに、東大女子学生(かんば)美智子が警官隊との衝突により国会構内で圧死するという事態が重なった。

 

反岸感情は極度に増幅されて爆発した。

デモとシュプレヒコールの嵐を首相官邸で目のあたりにした岸にとって、アイゼンハワー米大統領の訪日中止と内閣総辞職を代償に、新安保条約の自然成立をひたすら孤独に待つ以外の選択肢は、もはや存在しなかったのである。

 

樺美智子さん東大合同慰霊祭後の抗議の行進

(毎日新聞社提供)

 

合同慰霊祭後、学生たちが本郷通りから国会に向かう様子。

樺美智子の遺影をもつ学生(こちらからみてみ右側、「一同」の「一」の字のほぼ真下)は、安藤達朗先生である。

 

解 答

 

岸首相にはA級戦犯容疑者という負の遺産があり、当時の革新陣営は安保改定阻止のための行動を積み重ねていた。こうした中で5月、1カ月後の米大統領訪日までに新条約批准を終えたいと考えた岸内閣が国会内に警官隊を導入して衆議院で条約承認を強行採決したため、「反岸」感情に議会制民主主義に対する危機感が重なった。

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