7-4 奈良時代の政争

 

奈良時代政治史の特徴は、全体として、藤原氏と皇族出身者(+僧侶)が、ほぼ10年ごとに中央政界で政権を担当し、そのなかで藤原氏の台頭が顕著になっていった点にある。

 

 710年代

藤原不比等(ふひと)(鎌足(かまたり)の子)が政界の中心に位置し、養老律令を完成させる(718)など律令制度の確立に尽力(じんりょく)すると同時に、天皇家に接近した。

 

720 不比等没。

 

 720年代

長屋王(ながやのおう)(天武天皇の孫)の政権成立。

三世一身法(さんぜいっしんほう)(723)などの諸政策を実施した。

 

729 光明子(こうみょうし)(不比等の娘)立后(りつごう)問題をめぐって、長屋王は藤原4兄弟(藤原四子=不比等の子たち)と対立し、自殺(長屋王の変)。

 

 730年代

藤原4兄弟が勢力を拡大。

長屋王の変後、藤原4兄弟(武智麻呂(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい)・麻呂)は光明子聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后(こうごう)(天皇の正妻)とすることに成功した。

 

737 天然痘(てんねんとう)により藤原4兄弟没。

 

 740年代

橘諸兄(たちばなのもろえ)(皇族出身者)が政権掌握。

吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぽう)らが政界で重用されると、740年、吉備真備・玄昉の排除を求める藤原広嗣(ひろつぐ)(式家(しきけ)、宇合の子)の乱が発生した。

 

以後、朝廷は動揺し、聖武天皇は遷都(せんと)をくりかえした(恭仁京(くにきょう)難波宮(なにわのみや)紫香楽宮(しがらきのみや))。

また、国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)(741)、大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)(743、同年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)も発令)をだし、仏教のもつ鎮護国家思想(ちんごこっかしそう)によって国家の安定を図ろうとした

 

 750年代

藤原仲麻呂(なかまろ)(南家(なんけ)、武智麻呂の子)の勢力が伸張。

749年に孝謙天皇(こうけんてんのう)(聖武天皇の娘)が即位し、これにより、その母光明皇太后(こうたいごう)(光明子)が権威を高めたため、仲麻呂が台頭した。

橘奈良麻呂の変(たちばなのならまろのへん)(757)後、みずから擁立した淳仁天皇(じゅんにんてんのう)から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜った。

 

759 光明皇太后没。仲麻呂の権力弱体化(764年に恵美押勝の乱発生)。

 

 760年代

道鏡(どうきょう)が僧侶政治を展開。

孝謙上皇(のち再び即位して称徳天皇(しょうとくてんのう))の信任により、道鏡は異例の出世を遂げた。

769年には、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとする事件も発生したが、この動きは成功しなかった。

 

770 称徳天皇没。道鏡左遷(させん)

 

 770年代

皇統、天智系(てんじけい)

藤原百川(ももかわ)(式家、宇合の子)らが光仁天皇(こうにんてんのう)(天智天皇の孫)を擁立し、混乱した律令政治の再建をめざした。

 

系図 天皇家と藤原氏