1.物語の始まる、前

 この学校は灰色だ。そしてこの町は灰色だ。東京も灰色だ。つまり、Kにとってこの世界は灰色だ。コンクリートの色。Kを閉じ込めて逃がさない無機質の色。Kはもう、飽き飽きしていた。都心のビルの中に埋もれるように建っている学校の屋上の、落下防止用のフェンスの向こう側に、Kは立っていた。雑居ビルの檻が学校を押しつぶすように迫っている。Kは自分の足下を見下ろす。今、一歩踏み出せば時速60kmで地面に激突するこの身体は確実に絶命する。自由落下。もとい、重力から解放され、死ぬ直前でさえ、この身体はきっと自由ではない。と、Kは思う。そしてそれは死んだ後も同じことだと。だからKは飛び降りはしない。死んだってなんの解決にもならないとわかっている。毎日ここへ来ては、ビルの檻を眺めて、飛び降り、死ぬのを想像する。何度も何度もイメージの中で死ぬ。そのスリリングな体験だけがKにとっての癒しだった。
 毎回、一歩を踏み出そうとする脳の命令がKの脚の筋肉のサルコメアに届く瞬間に、走馬灯を見る。自分の16年をおさらいする。悲劇的な人生ではなかった。あるいはそうであった方が面白かったかもしれない、とまで思う。Kは普通の人生の中で普通の幸せを見ず、普通の落胆だけを感じて生きてきた。Kを育てた両親には無関心で頼りない親戚を軽蔑し、いじめの被害者になったが加害者にも傍観者にもなった。恋愛を馬鹿にしたが他人に憧憬の感情をむけたこともある。Kの目を通って網膜に写る世界は一様につまらなかった。そんな自分を考える度に、死にたくなった。死のうかと思うが、5時のサイレンが鳴るとフェンスのこちら側へ戻る。今まではそうだった。
 今日でフェンスの向こう側に来るのは108回目だ。煩悩の数。本当に死ぬならピッタリな回数かもしれない。99回目の時も、100回目の時もそう考えた。しかしKは今日もまた屋上の縁に立っているのだった。Kは右足を前に出す。体重の半分くらいが前へ移動する。左足が落ちまいと力を込める。片足一本、力を抜けばKは落下する。風が一迅、背中を押せば落下する。身体の中で左足だけが死にたくないと主張した。死にたくない。どうしても死にたくない。
 5時のサイレンが鳴る。Kは今日もまた、フェンスのこちら側でコンクリートの塀に囲まれていた。
挫折の瞬間はいつも辛い
身体の底から溢れ出す涙と言葉が
僕たちの世界を水浸しにする
こぽこぽと僕の中から空気が抜けてゆく
そうして空いた穴ぼこに
組織液が満ちていく
そうして泣いた僕たちは
一つにならなくとも通じていく
薄弱光線の射し込む麻酔液の中を
大人になりきらないまま
泳いで行こう
その時僕たちは
良き友人に
良き他人に
なれていただろうか
今夜もよろしく
脳みそを騙くらかして
今夜もよろしく
ただ暗闇を貪る

ブクブクと太った僕の精神
鈍い音を立てて地べたに倒れこむ
グルグルと回った夜の景色
闇夜さえ見えない暗闇に沈み込む

今夜もよろしく
夜霧の向こうにあなたをみて
今夜もよろしく
ただ暗闇を貪る

今夜もどうかよろしく