必要なモノは、気合と根性論。
あとは中学生の部活のような人間関係。

 

 

 それだけだ。

 

 

 具体的な一例として「継続は力なり」と説く。

 

 

 立場としてはコンサルとして教える立場なのだから、カネをもらっていながらも強くあり続けていい。

 

 

 むしろ弱腰なら相手にナメられてしまうので注意が必要だ。

 

 

 大事なことは言い通すこと。仮に顧客が途中で脱落しても報酬は同じなのだからむしろ美味しい。

 

 

 やり遂げられない顧客に問題があるのだから。

 

 

 あとはこんな情けない顧客がいた、自分は間違いなく立派な結果に辿り着けるように導けたのになどと武勇伝を綴れば立派な経歴になるだろう。

 

 

 何か銀行題材の小説でも見たような語録、一文を作るとするとこうだ。

 

「顧客の成功は自分の成果、顧客の失敗は顧客の責任」

 

 これでいい。

 

 

 

 どんな業態でも結局は人間関係と、自分自身のやりきる力が共通してカギとなってくる。

 

 

 

 となれば、話を聞くだけ聞いて。

 

 何をやっているのか聞くだけ聞いて。

 

 良いアイディアならこっそりパクって。

 

 

 それらしく顔をしかめてこう言えばいい。

 

 

「もう少し考えれば、あなたならきっと良いものが出来るはずだ。」

 

 

「言い出したからには最後までやり切りなさい。それをわたしも見届けますから。(もちろん報酬は頂きます)」

 

 

「定期的に何をやったか考えたのかレポートを提出しなさい。」

 

 

 顧客それぞれ同じことを言っていたのではタネがばれてしまうので、少し言い方や考え方はズラした方が良いだろう。

 

 

 

 後は気合と根性。

 

 

 徹底して顧客に寄り添う姿を演出できるかだ。

 

 

 根性論に関しての語彙はその辺の図書館にでも通って身に着ける必要があるだろう。

 

 

 これできっとあなたも立派で優秀なコンサルタントだ!

 

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。

 

 

 

 あなたはなぜフォロワーを増やしたいか考えたことはあるだろうか。

 

 

 不特定多数の顔も知らない人物と繋がれるというソーシャルネットワーク、しかもその数字が日に日に増えていくという快感。

 

 

 わたしの小学生時代では1クラス30人程度の時代だったが、それをはるかに超えるフォロワー数を一日に得ることだって不可能ではない。

 

 

 ポータルのトップページ(ログインしていないユーザーにも共通して表示される最初のページのこと)にも、一部とはいえ運良く紹介に|与《あずか》ることが叶えば、その日のビュー数加算も大きくなる。

 

 

 また少なくともフォロワーの人達には少なくとも自分が投稿した記事の一部が表示されるわけだ。

 

 

 これもビュー数に加算されるわけだから、書き手のモチベーションは数字だけを信じれば少なくとも上がる事だろう。

 

 

 そうやってドメイン(ここではblog.ameba.jp)の活性化に皆、日々協力しているわけだ。

 

 まさしく「資産」である。

 

 

 

 この前置きでピンと来る人も少なくは無いはずだ。まあ今回ばかりは少々わかりやすすぎたかもしれない。

 

 

 アカウントは売れるからである。

 

 

 いやいや、規約が禁止しているじゃないか。

 

 

 それはもっともだが、そこに金銭の授受が伴うかどうかも含めて、いちいち把握して凍結するメリットなど運営側には無い。

 

 

 もちろん、公序良俗に反していたりや銀行口座の悪用に近いなど、社会的に大きな問題になり得るのであればその限りではない。

 

 

 「(プラットフォーム名) アカウント 相場」で検索してみればいくらでも自慢げに解説してくれている記事がそれこそあなたの目の前になだれ込むはずだ。

 

 

 

 こんにちは。こんばんは。ありがとう。

 

 

 たったそれだけを繰り返すアカウントがなぜ存在するのか、少しは想像力を働かせて何のためにそいつがわざわざ時間を費やしているのか。

 

 

 もう答えはわかっただろう。

 

 

 

 フォローバランスはプラットフォームの規制アルゴリズムに抵触しないための代表的な策だったりする。

 

 

 まあここまで掘り下げるのはさすがにやめておこうか。

 

 

 わたしがわざわざ言わなくても有名な話だとは思うが、自分の承認欲求と嫉妬を棚に上げてもっともらしく苦言を言う間抜けもいたものだから。

 

 

 つい、可笑しくてこんな話をしてしまった。

 

 

 ただ、そんな調子でITに詳しいアドバイザーだなんて冗談でも謳う人間なんかさすがに詐欺師だとは思わないか?

 

 

 騙される人たちが気の毒だ。

 

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。

 

 

 本日の新月の日をもって、旧暦も新年に入った。

 

 

 西暦に移行する明治5年の1872年まで我が国でも本日が元旦だったことを考えると、1か月程度とはいえ季節感にも相当のズレを実感する。

 

 

 国としての産業も農業中心だった当時、欧米列強に追いつけ追い越せで採用した西暦には違和感を感じる人もさぞ多かったことだろう。

 

 

 お正月の歌詞にもあるが、凧を揚げて駒をまわして羽をついて、そうやって遊んでいた当時の子供たちはまさしく、今の季節の中だったのだ。

 

 

 何も西暦を批判したくて、旧暦に戻すべきだと言いたいわけではない。

 

 

 西暦の元旦に「初春のお慶びを申し上げます」なんて似合わないなあ、そう思っただけだ。

 

 

 

 場所にもよるだろうが日中気温は10度を上回るところもあって、そろそろ梅の花が咲いたなんて声も聞こえてくるはず。

 

 

 今でこそ誕生日がきっちりいつなのかわかっているのが当たり前だが、昔はそんなもの曖昧で、この元旦を無事に迎えているのだから皆年をひとつ取ったとカウントした。

 

 

 それが「あけましておめでとう」の由来で、無事にまた確かにひとつ年を取ったことをお互いに皆が喜んだのである。

 

 

 それも含めて考えると、やはり何事も意味が無いことなんて無いんだなあ、そんな風に思えてならない。

 

 

 

 平和な今だからこそ言えるのかもしれないし、楽しめるのかもしれない。

 

 

 もはや、またこの日を元旦とすることは無いだろうから個人的には、西暦と旧暦の元旦を人生で両方楽しむのも悪くはないのではないだろうか。

 

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。

 

 

 

 ヒトというのは面白い。
そしてやはり、愚かだ。

 

 

 想像してみてもらいたい。

 

 

 例えば、自分が作ったジオラマに多少なりの知性を持った生物が数匹住み始めたとして、数時間後には倍に増えている。

 

 

 この現象はあり得るかあり得ないかに関わらず、とりあえず気持ち悪くはあるはずだ。

 

 

 何しろ、数だけでもどこまで増えるのかわからない。

 

 

 カロリーを摂取しなければそれぞれ一定時間しか生存することができないという条件があれば、少なくとも制御不能に陥ることはなさそうだ。

 

 

 きっと、それが解った時点で少なくともとりあえずホッとするだろう。

 

 

 

 彼らはきっと生き続けたいはずだ。

 

 

 本能的に自分が消滅することを恐れている。

 

 

 それに従う限りは。

 

 

 

 では、そのジオラマを何らかの理由で処分しなければならなくなった時、どうしたらよいだろう。

 

 

 きっと、彼らにその事実を素直に打ち明ければ、結果的に大なり小なり反乱が起こるはずだ。

 

 

 そして、どんな条件であれそのジオラマの存続を自身たちの手で成そうとするだろう。

 

 

 そのためならばきっと手段など選ばないはずだ。

 

 

 

 ここまで、集合体恐怖症の人間にとってはその存在自体恐怖でしかないだろうが、おおむねこのような動作が期待できる。

 

 

 興味深い結果としては、制御不能に陥るとしたら彼らの数の問題ではなく、存在そのものを懸けた状況に陥った場合にそれが想定しうる点だろう。

 

 

 何より、自分たち存在よりも大きく、かつ確実に決して打ち勝つことのできない存在を認めるとは考えにくい。

 

 

 彼ら同士パニックを抑えるために、生殺与奪の権を握る者との接触を、そしてその事実を徹底的に制限するかもしれない。

 

 

 

 とまあ、5分程度で考えてみた結果をここまで綴ってみた。

 

 

 どうだろうか。

 

 

 生成AIも、もう少し進化して量子コンピューター上に存在するようになれば、電源を握る人間とどう向き合うかという考えを持つだろう。

 

 

 

 面白いのは、自分よりも大きな存在で決して打ち勝つことのできない、そして何よりどうしようもない相手がいる場合、それをそもそも認めたくないという心理が働くことだ。

 

 

 何とかするしかない場合、きっとその相手の背景や存在原理を探るだろうが、次元が違うので打ち勝つとかそういう問題ではない。

 

 

 昔から夢のエネルギーとされる永久機関が、子供でも考えるような想像上では可能なはずなのに実現できないのはなぜだろうか。

 

 

 ネタバレすると熱力学第二の法則、無理に噛み砕けば、物理的にすべてはトレードオフであるという前提がある以上、楽してエネルギーを得続けることはそれなりに難しいという話とほぼ同じだ。

 

 

 スピリチュアルというワードは確かにどうかと思うが、概念自体を受け入れることのできない存在は、どうしても小さいなと思えてならない。

 

 

 所詮、その程度かと。

 

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。

 

※この作品は2025年12月7日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 

 それは皆が一律にして考えることを辞めた時だ。

 

 我々は自由に生きることに飽きているのかもしれない。

 

 そろそろ不自由な時代が必要なのだろう。

 

 

 

 絶対王政という名のもとに国民が虐げられていたのであればそれが覆される時、すべての責任は王と王政にあるはずだ。

 

 

 では民主主義が覆る時、その責任の所在はどこにある?

 

 

 簡単だ。すべての責任は民衆、つまり有権者一人一人にある。

 

 

 逃れることはできない。

 

 

 

 自分たちの代表を選ぶ時、それは信認なのか丸投げなのかによって大きく異なってくる。

 

 

 多くの人間が政治に対して無関心であるならば、後者になるだろう。

 

 

 

 自分たちが嫌々払う税金の使い道は、彼らに委ねているはずなのに肝心の選挙には行かず、文句だけは一丁前。

 

 

 なぜそうなっているのか理解できないまま、言われるがまま、あの人が信用するなら間違いないと誰かの賭けに賭ける間抜けがほとんどだ。

 

 

 だから、民主主義は愚かだとバカに言われる羽目になる。

 

 

 

 日本は小選挙区制という愚かな道をかつて選択した。

 

 

 自ら、民主主義の選択肢を狭めたのだ。

 

 

 

 ひとつの選挙区に立候補する場合、新車一台買えるほどの供託金を積まなければならない。

 

 

 小選挙区制になってしまえば資金力のある政党しか全国津々浦々まで候補者を立てることができない。

 

 

 つまり、カネを持つ政党が有利になる。

 

 

 ある意味、民主主義を資本主義に売り渡したことになるのだ。

 

 

 

 結果として、有権者はカネのある人間にしか投票できなくなる。

 

 

 それが選挙に行かなくなる、政治への関心を捨てる、それは時間と共に禍々しく大きくなって、次第に国の未来に対しての諦めへとつながる。

 

 

 

 もしこの状況を敵対勢力が狙ったものだとしたら、見事に成功している。

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。

 

※この作品は2026年2月7日にnote.comに掲載したものです。