暑く、いや熱く語る人が何処にでもいたりする。
例えば、表現をしたいと思って台本なり脚本なりエッセイなり書きたいと思ったりする。
これも書きたい、あれも書きたいと、てんこ盛り状態になる。記号として文字数が多いと、表現が出来ている錯覚に陥りがちだ。ひとつの答えに導くための長文は、論文としてなら、わからない訳では無い。
個人でなく、集団で表現するとなるとまた別の話になる。
自分が頭の中に描いた世界観を周りに周知させ、共通認識を持たせる。
仮にだ、自分が助監督を長年勤めてきて脚本と監督の両方が出来る機会に恵まれたとする。拘りに拘りたいだろう。その拘りをスタッフに熱く情熱を傾けて、わかって欲しいと思うだろう。
○○論を熱く語り、語りがピークになってしまう事は、ままある。自分の表現によって、何者にかになりたいと思う気持ちは否定はしない。
身内の情熱や正義は、外側の人間には関係が、まず無い。情熱と正義のエコーチェンバーにいると、自分が何者かになれた気はするのかも知れない。大概は打ち上げ徒花に終わるけれども。
地域振興表現の仕方は、いろいろあるのだろうけど、それは時として重い足枷になる。地域振興表現にバッドエンドはありえないし、情熱と正義と、あと俯瞰は必要経費として大事になるんじゃ無いかな。
外から見ると冷静、だけど中に入るとそれが出来なくなる。自分は何者なんだと思い込んでしまいたくなるのだ。
情熱と正義だけは、自慰行為で空回りになりがちかな。人によるけど、カリスマ性があれば、それで引っ張れる事も不可能では無い。
才能がある人は、悲しいかな限られた人で、大概は普通の人である。普通の人が、何者かになれるのではないかと、情熱と正義が拗れたりするとなりがちかもしれない。
情熱や正義に浸るのは、気持ち良いもんな。自己肯定感の処方箋としては、かなり有効な処方箋だ。人それぞれの情熱や正義は違うから、自分の情熱や正義を納得させるのは容易ではない。
今、ノープランでブログ書いていて着地点のパラシュートの紐をいつ引っ張るかを探っている。
地域表現をリアルにすると、エンタメにはなり得ない。ちょいとした希望のファンタジーが必要になる。
地域表現✖️情熱と正義=は…
自分自身は、現在答えはわからないでいる。