青山実験工房に行く訳 | この辺りの見所の者

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青山実験工房に行くのを決めたけど、迷っていた訳がある。
7月と8月に山形と仙台で現代音楽ユニット絶頂のコンサートに行った。ミニマルミュージックのスティーヴライヒや、若い日本人作曲家やジョージクラムなど、今の現代音楽に触れる事が出来た。
青山実験工房は、今回は武満徹、甲斐説宗、モートン・フェルドマンの作品を演奏する。観世寿夫の世代にあたる作曲家と言ってもいいと思うけど、観世寿夫の世代の空気の現代音楽を、今、令和の時代に演奏、または上演するのはどうなんだろうと思ったからだ。観世寿夫が、もし長生きしていたら、最先端の作曲家とコラボしていたのではないかと想像したりする。
清水寛二師が、観世寿夫の財産の一つを受け継いでいこうという姿勢には敬意を表する。しかし、今回のプログラムからは観世寿夫が当時の最先端の現代音楽とのコラボと言う時代の空気を感じさせるものには自分にはどうしても見えない。
観世寿夫ノスタルジーにか感じないのだ。
そう思いながらも行く事にしたのは、そうなのかを肌で確認するため。
観世寿夫が、長生きだったら時代の空気をアップデートし続けていたと思う。
観世寿夫の同時代の空気感のある現代音楽を再現する、ある意味の伝統芸能、伝統音楽と言う古典の上演になるのではないかと勝手に想像している。
12/6日は、その答え合わせになりそうだ。







山形絶頂ブログ↓

[スティーヴ・ライヒのディファレント・トレインズ。もう25年くらい前に、ピーターバラカンのDJの深夜のスポンサー無しのラジオがあった。ネヴィル・ブラザーズなどを紹介していたが、スティーヴ・ライヒのディファレント・トレインズも紹介していて、ライヒを初めて知った。
何度かナマで聴く機会はあったけれども、縁が無かった。まさか、東北の山形でディファレント・トレインズを聴けるとは夢にも思わなかった。東北やるじゃん。

絶頂という現代音楽ユニットは、仙台フィルの飯野和英氏と現代音楽作曲家の大久保雅基氏のユニットで、演奏会ごとに他の演奏家を加えて楽団を編成。

○今回の演奏メンバー

平澤海里(VI)山形交響楽団アシスタントコンサートマスター。(第1ヴァイオリン:WTC9/11)

小山あずさ(VI)仙台フィルハーモニー管弦楽団団員。
(第1ヴァイオリン:食物連鎖の生態系を作ってみたら…。旅行の思い出は写真フォルダが語る。ディファレント・トレインズ)

飯野和英(va)仙台フィルハーモニー管弦楽団ヴィオラ副首席。絶頂主宰。

久良木夏海(cello)山形交響楽団団員

大久保雅基(エレクトロニクス)作曲家。

▽スティーヴ・ライヒ:WTC9/11

ライヒが、2001年9月11日から10年後にあたる2011年に、ライヒとクロノスカルテットに委嘱された曲。絶頂メンバーとモニタースピーカーからはクロノスカルテットの演奏とアンサンブルを作っている。

第1楽章は、9/11。
※モニタースピーカーから、事件当日の無線交信記録の肉声を使い、電話受話器をあげたままにになると鳴る緊急警告音から曲は始まる。

モニター演奏とナマ演奏のリンクが見事にハマっていて、演奏者のバッグにはプロジェクターからの字幕映像が流れる(字幕作成はヴィオラの飯野和英氏。)
911の無線交信の肉声が流れ、映像はその言葉が映し出される。その言葉に音楽がしっかりと噛み合う事がナマで映像と一緒に聴くとわかる。

第2楽章は2010。
※当時の現場を体験した3人の人物のインタビュー。

第3楽章は WTC。
※遺体安置所に居続け、祈り続けた数名の2人の声が使用されており、聖書の詩篇がヘブライ語で美しい旋律によって歌われます。

ライヒも今日来ていた聴衆も、911はリタルタイムで経験し、時代の空気を共有しているのが大半ということもあり、生々しい当時の空気を演奏を聴いてるいると思い出す。

※(今日のプログラム解説より。解説・字幕:飯野和英氏)



▽大久保 雅基:【衝撃】食物連鎖の生態系を作ってみたら…(2018)

去年、第1回絶頂公演で初演された曲。山形初演。第1ヴァイオリンが平澤海里氏から小山あずさ氏に代わる。

まず、プロジェクターからの映像には食物連鎖の様々な色の箱が蠕き始める。プロジェクターの4隅に弦楽四重奏の楽器の楽譜が移し出される。この曲の演奏は各楽器のピチカートのみ。演奏者も楽譜ではなくプロジェクターの楽譜を見て演奏。楽器プロジェクターが色が変わる瞬間にピチカート。
最後は、青色の箱が食物連鎖で大きくなり蠕く所で一瞬で終わる。食物連鎖を単純なピチカートのみで映像のBGM的(作曲家 の解説)を狙った曲。

▽大久保 雅基
旅行の思い出は写真フォルダが語る(初演)
楽譜はタブレット。コンピュータに各奏者に対してランダムな楽譜がタブレットに送られるが、自分の席からタブレットが見えた。まるで、ゲームの太鼓の達人みたいな点と線が流れて、左端の赤い線にそれが到達するタイミングで弾く。おそらく、この曲は、ランダムという事で同じフレーズにはならないのだろう。奏者も楽譜初見で太鼓の達人の画面(テレビのカラオケ番組のキーの採点画面にも例えられる。)奏者も予測出来ない緊張感がある曲なのかもしれない。点と線が意外にぶつからなく、構造を持っていたのが驚きであった。


▽スティーヴ・ライヒ:ディファレント・トレインズ

演奏的には、ディファレント・トレインズが白眉。
これも、クロノスカルテットの録音音源がモニタースピーカーから流れる。クロノスカルテットのCDでしか聞いた事なかったディファレント・トレインズ。ナマで聴くと驚きの連続。曲の途中で、アーーという汽笛?のような高い声が聞こえて来るのだが、この曲の特徴だと思っていて人の高い声を重ねたと思い込んでいたら、ヴァイオリンとヴィオラで、あの音を出していた。長年の疑問が解決した。WTCが生々しい触れると切れてしまうような空間に対して、ディファレント・トレインズ(ナチスのホロコーストに向かう家畜列車)をモチーフに書いた曲ですが、モニタースピーカーの演奏とナマ演奏が重なってカオス感が噴出した演奏になっていた。
(プログラム解説:飯野和英氏,映像字幕:大久保雅基氏。)

▽アンコール
ジョン・ケージ:4分33秒

アンコール曲名を言わずに、大久保雅基氏がスマホを持って、指揮者となり、計3回腕を振り下ろす。指揮者は、振り下ろす度に身体の密度を高めていく。弦楽四重奏団も、弾く体制から動きを止める。
この無音の時間空間は能を思い出した。指揮者か、腕を振り下ろす度に序破急の様に空間を変える意識を感じた。特に2度目に腕を振り下ろした後から3度目までの無音時間が一番長かった。序破急の破の部分だったのかなと妄想が膨らんでいく。
これもまた妄想なんですが、能役者が4分33秒の指揮を勤めたら結構面白くなるのではないか。空間を変える名手の能役者で。また道成寺の乱拍子の無音状態(小鼓が幸流の時。)を思い出した。

聴衆の集中力が持たなくなるのも、また、この日の4分33秒の一コマであり、その日限りの演奏でもあるという事がわかった気がした。

東北やるじゃん。(2度目)]


仙台絶頂ブログ↓

[あいちトリエンナーレの表現の不自由展が物議を呼んでいる。

絶頂という現代音楽のコンサートは、また逆であり、聴衆という受け手の肌をザワザワさせ、感覚の不自由というものを感じさせる。




始まる前にハンティング・カルテットの牧歌的な主題が短く奏される。


■イェルク・ヴィトマン  ー  ハンティング・カルテット(2003)


5回弓を振って始まる。牧歌的な狩のリズムで不協和音が入り出して、狩人の中でチェロが少しずつ遅れ始めて、最後はチェロが、それ以外の人達に弓で狩られた。ハイ!!と掛け声も時折入る

■リチャード・バーレット  ー  コーデックスX II(2011)

画面に-1と11マスのゲージが色で進めて、(ダウンロードする感じ)ゲージが最後までいくと、数字が1になる。数字は9まで続けていく。数字のゲージの範囲内でルールの場面と即興の場面があると演奏後に解説。
数字ごとに、激しかったり静かだったり、エレクトロニクスのピコピコ音的なものも入ったり、数字のゲージの中の即興とルール。


終了後に、機材トラブルで早めに休憩。
前半のプログラムは、破壊→創造→異次元のテーマで続くらしい。

■大久保雅基  ー   太陽と月のように照らし続けて(初演)

13人の声のパフォーマンス
画面にシーケンサーの線が流れてきて、それに合わせて演奏。
声は掛け声と、パフォーマごとに言葉のフレーズが弦楽四重奏と合わさって行く。
言葉がハーモニーとしてのフレーズは圧巻。言葉に音程を付けてのハーモニーは、なかなか面白いな。


前半の三曲は破壊と創造と異次元をテーマとしたものらしいが、それはある枠内の中でのものであるなと思えた。ルールと自由という表現の枠内で、ルールという不自由の中で破壊と創造と異次元に曲ごとに移行する様は、完全な自由というものは無いのだ。ルールという秩序が出来て、そこで自由は初めて生まれる。その自由は異次元に移るとシステマチックになり表現者のプライバシーが、だだ漏れになり、それを受け手は監視することができる。破壊と創造から異次元になると人々は、全てを監視されると意味での異次元は今を投影したもとであり、作曲家の意図はそこにあるものであろう。影のない、全てを映し出すということは、全てが監視と光で明らかにされてしまう意味と自分なりに解釈してみた。
この三曲で組曲として成立していたのではないだろうか。

休憩

■ジョージ・クラム  ー   ブラック・エンジェルス(1970)

19本の水の入ったデザインの違うハープグラス19本。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンに7本。ヴィオラに6本。
銅羅を弓で弾く。

春の祭典ならぬ、悪魔の祭典。ストラヴィンスキーの春の祭典を、よりリアルに悪魔の祭典としての曲に聴こえてくる。音を聴いて、肌はザワザワし、感覚は不自由になる。戦争という悪魔の前では、人々は感覚の不自由になってしまうのだろか。ザワザワした肌は思考を一旦拒否する。そこから停止にするのか、それでも思考を続けていくのか。ブラック・エンジェルスは、人の悪魔の部分を炙り出して、それを問いかけているようにも思えた。

ブラック・エンジェルスはクロノスカルテットのCDは知っていましたが、ナマで聴くのは一期一会になりそう。
今日の演奏の中で1番印象に残った。

■スティーヴ・ライヒ  ー WTC9/11(2011)
先日の絶頂山形で聴いていましたが、また今回聴いてみると、通信記録の声の音と曲のフレーズがリンクしているのが解る。言葉だけでなく、フレーズを弾くのも言葉の繰り返し効果を実感。


第1ヴァイオリン/川又明日香
第2ヴァイオリン/瀧村依里
ヴィオラ/飯野和英
チェロ/山澤慧
エレクトロニクス/大久保雅基



表現を受けるということを考えさせられる。常に安心した表現に慣れてしまうと感覚は本当に不自由になってしまう。肌がザワザワする感覚の不自由は、思考という自由の扉を開けてくれるものではないだろうか。今回の絶頂のコンサートは、肌と感覚を思考させるもので、アートそのものだ。

感覚の不自由という思考を表現者から問いかけられた。それを受け手は思考の広がりとして脳内記憶されるだろう。
刺激的なコンサートだった。それだけは感覚の不自由でも断言出来る。]