『関寺小町』は無色 | この辺りの見所の者

この辺りの見所の者

気ままなブログです。

photo:01


5月29日(水)に国立能楽堂30周年企画公演として、観世流能役者で人間国宝である片山幽雪師が、師自身三回目の
『関寺小町』を舞いました。
幽雪師の『関寺小町』は初見となります。
番囃子を含めると、『関寺小町』観能は今回で六回目です。過去五回の観能では、『関寺小町』は捉えどころの無い曲に観る度に感じざるを得ませんでした。
観能前に、久々に国立能楽堂図書閲覧室を訪ねて、『関寺小町』に関する能役者の芸談や能評家の本を何冊か読んでみると、能評家の沼 艸雨氏が著書で『関寺小町』は『翁』と同じようなもので、批評を差し控えたいという記述に眼が止まりました。
何かしらのヒントに思えました。
沼氏は、この二曲を神事として捉えていたのではないか?よく『関寺小町』を面白いという人はあまり聞きません。『翁』や祭祀を面白いと思って観ているでしょうか?いや、そうは思っていないのが大半だと思います。
『関寺小町』は近年の能楽研究によれば、その成立は世阿弥が佐渡に足利義教によって流されたあとではないかといわれています。シテの小野小町は世阿弥自身を投影したものではないかという説もあります。
『関寺小町』とは、世阿弥が老女物でありながら、限りなく祝言(神事)に近いものとして作付をしたのではないかなという考えが、観能後に最初に思えた事です。
そう思えたのは、拙い経験ですが、伊勢の神宮の祭祀に幾度か奉拝したことが大きいのでしょう。『関寺小町』と祭祀の空間は似ているのですよ。あくまでも自分の感覚に過ぎないと言われればそうなのですが。

少し、流れを書かなくてはなりませんね。
音取はありましたが、置鼓は無し。
シテは、台詞を間違えたり、同じのを繰り返す疵はありましたが、後見の観世清和師がそばに付き添い、付けていたせいから、間が開かなかった事は幸いでした。短冊は左側は四冊、右側に三冊あり、左側の前から二つ目を取り出して、閉じた扇で硯を擦り、二回に分けて歌を書き付けます。
ワキと子方に誘われて藁屋の外に出てきたときの面の表情。古面では無いと思えたのですが、気高さを失っていない姿が面から伺われました。誰かの作かは分かりませんが良い面だったと思えました。
幽雪師は三回目の演能であってか、位に潰される事も無くら身体の線と空間が濁る事もありませんでした。
笛の藤田六郎兵衛師は、掠れるギリギリまで音色を絞り込み、小鼓の大倉源次郎師と大鼓の山本哲也師も位を作り上げていました。山本哲也師は、以前よりも、音色の濁りが無くなった気がします。大鼓の後見には、流儀の違い亀井忠雄師が付いていました。
地謡も、地頭の梅若玄祥師を筆頭に、透明でサラサラとしたもので、強めの調子でも濁らせることは決してありませんでした。
中之舞になると、それまで現在物としたリアルな空間が、小町自身、もしくは小町に自分自身を投影させた世阿弥の人生の縮図が現れているようでなりません。
二段オロシで、シテはシテ柱を背に座り込みます。笛は替えの手でしょう。
老いの悲劇がありながら、美しさもあるようです。
『関寺小町』は面白くないという考えも聞きます。自分も感覚が掴めないでいましたが、無色透明は面白くないですよね。ただそこにある。自然と寄り添い同化する。
正しいかはわかりませんが、自分なりの『関寺小町』観は作れた気がしました。シテ、三役、地謡が自然に溶け込ませる。
今回の『関寺小町』を観れて良かったと思えるものでした。

最初に、一調。
「葛城」梅若玄祥
金春惣右衛門

品のあるしなやかな謡と太鼓。

能『関寺小町』
シテ 片山幽雪
子方 片山清愛
ワキ 宝生 閑
ワキツレ
宝生欣哉 則久英志 大日方 寛
笛 藤田六郎兵衛
小鼓 大倉源次郎
大鼓 山本哲也
後見 観世清和 大槻文蔵 青木道喜
地謡地頭
梅若玄祥







iPhoneからの投稿