↑のつづき。

さて、話は2024年8月末に戻ります。

エビス生誕の伝承地に行った翌日。

台風が接近しており、
強風と時折降る大雨。

山に入ることは危険だと思い、
無理せず徳島市周辺の神社を巡ることにした。


鳥居の扁額は高良神社。

「高良(こうら)」と言えば、
筑後国一宮『高良大社』。

祭神の高良玉垂命の正体は、
諸説ある中で武内宿禰が有力だったが、
結局のところよくわかっていないのだそうな。








拝殿。

『高良(こうら)神社』

鎮座地 徳島県徳島市応神町古川高良
創健 不詳
祭神 武内宿禰

彫刻もすごいが、雨もすごい☔



『六社神社』の扁額がある。

しかし、この高良神社には
七社が合祀されているようだ。



この神紋は、
『丸に尻合わせ三つ葵』だろうか。




雨の境内も中々に素敵だ。



横から拝殿。



広めの境内には滑り台もあった。

子供たちの憩いの場が神社って良い。


小さな祠が並んでいる。










この応神町には、他にも『武威神社』に
武内宿禰が祀られており、
そもそも応神町は旧応神(おうじん)村。

応神村と名乗ることが
国に許されていたことがスゴイ❗

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明治22年の市制・町村制施行にあたり、
当時の東貞方・西貞方・古川・中原・吉成
の5ヶ村合併の折、明治政府に
「応神天皇のゆかりの地ゆえ
 "応神村"と致したし」と陳情し、
明治天皇のご裁可を頂いた。
by Wikipedia
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武内宿禰が仕えた神功皇后の子が
応神天皇であり、
実は、武内宿禰と神功皇后との子だという
噂もある、応神天皇所縁の地なのである。

応神町から吉野川を挟んだ南には
初日に参拝した産八幡神社が鎮座している。

それは応神天皇生誕地の伝承地。
産八幡神社より西側、

眉山西の高良峯には祠も鎮座しており、
武内宿禰の葬陵と伝わるなど、
挙げればキリがないほどに
武内宿禰の痕跡が遺されている。
亀の甲羅の形をした小峰だった為、
高良峯とは甲羅峯のことだった。
武内宿禰高良明神と称えられている。


さらに、
応神天皇の3人の妃は、
ここから西方の石井町に鎮座する
東王子神社・王子神社・西王子神社に
それぞれ祀られているのだそうな。


さらにさらに、
応神町西貞方には『仁徳橋』など、
応神天皇の子である
仁徳天皇ゆかりの地名も残されている。

無関係だとしたなら、
恐れ多くてとてもつけられない名だ。




阿波特有の五角形『地神塚』が二つ並ぶ。

いずれかの神社が合祀された時に
同時に遷されたものかもしれない。



すぐ近くに池。




さて、台風がさらに近づく前に、
同じく応神町内の神社へと向かった。


高良(こうら)』は『甲羅(こうら)』。

ふと、
沖縄には『高良(たから)』という
地名・名字があったことを思い出した。


つづく。

ではまた❗