↑のつづき。
さて、まずは
魏志倭人伝に記される
邪馬壹国のお話。
前提として
『邪馬台国(やまたいこく)』は存在しません。
「台」の字を用いるのは誤りである。
正しくは『邪馬壹国』。
その読みは邪馬壹国(ヤマトコク)だ。
高名な越智正昭先生のブログを
参考にさせて頂きますと↓
魏志倭人伝の邪馬壹国に関する文章には
こう記されている↓
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「出真珠青玉、其山有丹」
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つまり、
邪󠄂馬臺國の場所を比定するには、
3世紀頃、
真珠と青玉(翡翠)と辰砂(水銀朱)が
取れた場所であることが条件である。
『辰砂』
その時代の辰砂の採掘場遺跡は、
阿波徳島でしか見つかっていない。
阿南市の国史跡『若杉山辰砂採掘遺跡』では
石杵・石臼や辰砂の原石が
大量に見つかっている。
年代は弥生時代末~古墳時代初頭。
※空海ゆかりの太龍寺からほど近い場所
また、同じく阿南市の
『加茂宮ノ前遺跡』からは、
縄文時代後期~弥生時代中期に、
国内最大規模の水銀朱が
生産されていたことがわかっている。
『真珠』
愛媛県の宇和海は日本最大の真珠の生産地。
量・質ともに日本一の真珠が取れる。
『青玉(翡翠)』
翡翠の産地と言えば糸魚川などを思い浮かべる。
翡翠とは、硬玉(ジェダイト)。
しかし実は、
古代中国では翡翠とは似て非なる
軟玉(ネフライト)の方が高価であった。
硬玉に比べて柔らかく加工しやすく、
勾玉にも最適な鉱物だった。
そして、伊予国(現在の愛媛)は
軟玉にあたる
スメクタイト(ニッケル珪質岩)、
通称『えひめ翡翠』が
よく取れる地域だったのである。
今回は、そんな愛媛と徳島のお話。
併せて『伊予の二名島』である。
四国は元々、二つの国だった。
さてさて、
久々に阿波古代史のバイブル
『道は阿波より始まる その三』に
記載される面白い話を引用します↓
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伊予の二名島の意味は
伊予、伊倭と両方の呼び名があるとの事です。
伊予阿波地方では
大国主命を伊和大神とも呼びますが、
阿波国名でも徳島市勝占町の地名に
伊予王子がのこっていますが
古代では伊予島、伊和島何れでも
四国島を表しますが
九州地区と目前に接する北端に
わざわざ宇和海、宇和村の地名があるのは
当所までが倭国の領分であった事を
明示しているのです。
古代倭国が全力を挙げ伊予阿波の総兵力を
かたむけて戦ったのが九州地方にあった
異種族の国々だったのです。
豊玉比売女王の代になって初めて
九州全土を征服できたのですが
この地方で反乱がつづいたのは
四国島を国家として栄えた海洋民族とは
まるで異なった民族が九州地方で
強力は国家連合を形成していたと
考えられます。
興味深いことは倭人の発語
「あ」「い」を以て「あ倭(わ)」「い与(よ)」
と国名をつけ、阿波は「おおげつ姫」、
伊予は「え姫」をもって表し
西方九州地方と接する地域を「う倭(わ)」
と名付け「あいうえお」で
まとめてあるのです。
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また、こうも記載されている↓
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古代象形文字の研究家相馬氏が、
著書「古代文字の研究」の中で、
九州地方出土の甕棺や
洞穴の岩壁の古代文字を解読したところ、
「阿波、伊与を討て」
という呪詛が多くあった。
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この古代文字は、土着の民族の言葉。
九州の異種民族と、四国島の海洋民族との
敵対を表しているのである。
そして、
豊玉比売女王とは
トヨ(イヨ)のことだった。
延喜式内社 阿波国美馬郡 田寸神社 論社
『西照神社』。
※脇(わき)町は元々「倭城(わき)」。
祭神は
月夜見大神と田寸津姫命(宗像三女神)。
田寸津姫命は『瀧の姫』とも云われる。
由緒書きには↓
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月読尊は夜の食国
(筑紫の国即ち九州全域尚湯の出る国
即ち四国の嶋)を統括し
東大和紀伊の動向を看視せよと委任し給ふ。
そこで月読尊は航海の神、
田寸津姫命即ち宗像の三神の部族を率いて
伊豫から阿波の国に移り大嶽山の頂、
展望のきく所に櫓を設け
瀬戸内海難波及び大和の動向を監視せしめ、
天津神の詔を体し九州四国を統括し…
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とある。
ツクヨミは伊予国(夜の食国)にいた。
三種の神器がそれぞれ、
八咫鏡⇒アマテラス
天叢雲剣⇒スサノオ
八尺瓊勾玉⇒ツクヨミ
と割り当てられるのも、
ツクヨミが統治した伊予国(愛媛)が、
勾玉加工に適した
『えひめ翡翠』の産地だったから
なのではなかろうか。
阿波から見て日が沈む方向にある西の国、
現在の愛媛県である
『夜(ヨ・予)ノ食国(伊予国)』から
九州を統治したツクヨミが、
瀬戸内を監視するために
阿波の大滝山に連れてきたのが
卑弥呼の後継者『壱与(イヨ・台与)』である。
ツクヨミが伊予国から連れてきた
田寸津姫命こそがイヨ。
滝の姫さま。
※愛媛県今治市には、多伎都比売命を祀る
式内名神大社『多伎神社』が鎮座しており、
『瀧の宮』と称される。
イヨは阿波より「西を照らした」。
だから社名が西照神社なのだ。
イヨは、
天照らす卑弥呼に対し、
西の天照らす。
西照神社の宮司さんも、
「当社と伊豫神社は繋がっている」と
おっしゃっていた。
そして極めつけは、
徳島市上八万町に鎮座する式内社
『宅宮(えのみや)神社』に
古くから伝わる神踊りである。
明らかに『壱与(台与)』のことが
歌われている。↓
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●出雲踊の歌詞
伊豆毛の国の伯母御の宗女
御年十三ならせます
こくちは壱字とおたしなむ
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そして、
魏志倭人伝には、こう記されている。
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卑弥呼亡き後に国は乱れたが、
十三歳の壱与が王となり、
国は治まった
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『宅宮』をなぜ「えのみや」と
読ませているのだろうか。
もしかして本当は、
『愛宮(えのみや)』だったのでは
なかろうか。
『愛媛(愛比売)』の「愛(え)」。
そしてトヨ(イヨ)とは、
『豊受大神』であり『豊玉姫』である
かもしれない。
なぜなら、
豊受大神と同一神とされる
大宜都比賣神に関して、
三日月家とも称される粟飯原家の系図
『粟国造粟飯原家系図』にはこう記される↓
積羽八重言代主神の后神
粟国魂大宜都比賣神、
亦名を天石門別豊玉姫神❗
阿波徳島には、
全国で唯一
『豊玉姫』の名を冠する
延喜式内社が存在する。
『和多津美豊玉比売神社』と
『天石別豊玉比売神社』である。
個人的には別の女神だと思っている。
なぜなら…
つづく。
ではまた❗
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