↑のつづき。


さて関東出張4日目は東京。

初めて西東京市に降り立った。

そこには、
以前から気になっていた神社がある。


田無駅から徒歩10分。

『田無神社』。



拝殿。

『田無神社』

鎮座地 東京都西東京市田無町
創健 鎌倉時代
別称 尉殿大権現
祭神 
級津彦命(シナツヒコ)
級戸辺命(シナトベ)
大国主命

級津彦命・級戸辺命は
竜田大社に祀られる風の神様であり
竜神とも云われてる。

田無神社のホームページによると、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
五行思想に基づき、
本殿に級津彦命・級戸辺命、
境内各所に黒龍、白龍神、赤龍、青龍
を配祀し五龍神として信仰されている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

立派な彫刻。



龍神様で有名な神社。



しかし、この日の田無神社は
辰年の1月とあって、
平日の昼間でも参拝客でいっぱい。

境内の五龍神には行列が出来ていた。

混んでいるところが苦手なワタシは
拝殿でご挨拶し、早々にオイトマした。

でもご安心を。

目的の神社はここではない。

さらに南へ20分ほど歩いた場所に
その神社はあった。



その名も『阿波洲神社』❗

『阿波』ですよ皆さん。





先ほどの田無神社とは違って
人っ子一人いない参道。



鳥居。

並木の参道は大好きです。




鳥居の扁額も『阿波洲神社』。



冬の太陽と戯れる狛犬たち。






境内。

思ったより広い。





手水舎。



拝殿。

西東京市「新町」の氏神様
『阿波洲(あわしま)神社』

鎮座地 東京都西東京市新町
創健 宝暦2年(1752年)
祭神 高望王 少名彦命(スクナビコナ)

ちなみに、
高望王とは平安時代の皇族
『平 高望(たいらのたかもち)』の別名。

少名彦命は云わずと知れた
大国主命とともに国造りをおこなった神。


西東京市指定文化財第四十号 
『奉納絵馬群(ほうのうえまぐん)』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 阿波洲神社は宝暦二年(一七五ニ)
粟嶋明神として勧請されました。
(別当寺『寶晃院文書』)

江戸時代中期の
明確な創建年次を持つこの神社は、
享保九年(一七ニ四)から開発が始まる
武蔵野新田の一つ、上保谷新田の
鎮守神として祀られました。

粟嶋明神が表記を阿波洲神社に代えたのは
明治以降ですが、祭神に変更はありません。

粟嶋明神は紀伊の国(和歌山)
加太浦の淡島明神を総社としており、
祭神は女神の頗梨采女(はりさいじょ)
粟=淡にちなんで日本神話に登場する
少彦名命(すくなひこなのみこと)でした。

江戸時代、
江戸浅草の浅草寺境内に祀られた淡島明神が
女性の人気を呼んで信仰されたように、
上保谷新田の粟嶋も、
拝殿前の鈴(れい)に下がる五色の紐を切って
安産の腹帯にする習俗や、
女性たちの針供養・捨雛が行われていました。

指定文化財となった二十一枚の絵馬のうちには
子さずけや安産、婦人病平癒などを
祈願したとみられる「夫婦拝み」など
四枚があり、庶民的な図柄では「大工職人」
秋の「祭礼」、おそらく上保谷村如意輪寺の
馬駈け市に出かける道中の「飾り馬」
などがあって、信仰心意の種々相と、
当時の習俗を伝える貴重な資料と
なっています。

こうして阿波洲神社は、
女神の特徴や庶民信仰の側面を持ちながらも、
新田とはいえ独立した一村の
鎮守神であったことから、
その年中行事は豊耕神の
少彦名を祀る神社として、
全て村の農作の豊饒を祈念する儀礼でした。

平成七年三月
西東京市教育委員会
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つまり、元々のアワシマ
女神として扱われていた。

アワシマ(淡島神)は、
『古事記』のイザナギとイザナミの
国生みの段にて、
最初の御子神ヒルコの次に生まれたが、
ヒルコ(蛭子)同様に不具の子であったために、
葦船に乗せて流され、
イザナギとイザナミの子には
数えられなかった。

粟嶋明神は、明治時代の神仏分離とともに
少名彦命に変えられていった傾向にある。

アワシマ』と言えば、
阿波の国の由来といわれた
粟島を思い浮かべる。
阿波忌部の祖神天日鷲命
その妹阿波咩(アワメ)(天津羽命)であり、
阿波咩が祀られていた八条神社は、
現在阿波市市場町の粟島神社
合祀されているところも興味深い。



全国にある
淡島神社・粟島神社・淡路神社の総本社は
和歌山県和歌山市加太に鎮座する
『淡嶋神社』。

祭神は、
少彦名命
大己貴命
息長足姫命(神功皇后)。

創健は伝承では仁徳天皇時代。

その創健には、対岸に浮かぶ
友ヶ島(別称 神島)が関わっていた。

由緒↓
~~~~~~~~~~~~~~~~
その昔、
神功皇后が三韓出兵から帰る際、
瀬戸の海上で激しい嵐に会った。

沈みそうになる船の中で
神に祈りを捧げると、
「船の苫(とま)を海に投げ、
 その流れのままに船を進めよ。」
とお告げがあった。

その通りに船を進めると、
ひとつの島にたどり着く事ができた。

その島は、現在の友ヶ島であり、
少彦名命と大己貴命が祭られていた。

神功皇后は、お礼として
持ち帰ってきた宝物をお供えした。

その後、何年か経ち、
神功皇后の孫の仁徳天皇が
友ヶ島に狩りに来たときにその話を聞き、
島では何かとご不自由であろうと、
お社を対岸の加太に移され、
ご社殿を建てたのが、
加太淡嶋神社である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
また、
「淡嶋神社」は、毎年3月3日に
全国各地から奉納された
ひな人形と願い事を書いた
形代(かたしろ)を乗せた小舟を、
神島(友ヶ島)に流す「雛流し」という
神事で有名だ。

友ヶ島から淡路島は目と鼻の先。
そしてその向こうには徳島がある。


「ひな人形」は
阿波咩の夫である事代主にも繋がる。

また、
「底抜け柄杓を結んで奉納する」
というしきたりは、
の神天日鷲命
阿波咩の別名であるオオゲツヒメを祭祀する
上一宮大粟神社の神宝の柄杓を想起させる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
少彦名命は
淡嶋(あわのしま)に行き、
粟莖(あわがら)に上ったところ、
彈(はじ)かれ常世郷に渡り着いた
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とされており、
少彦名命阿波(粟)に居たことを
暗示させているのではなかろうか。

また、
伯耆国風土記には↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
粟嶋』 
相見の郡。
郡の役所の西北に余戸の里がある。
そこに粟嶋がある。
少日子の命をお蒔きになられた時、
粟の実が穂一杯に稔って落ちた。
そこで粟柄に乗って弾かれて
常世の国までお渡りになった。
それで、粟嶋と名付けている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と記されている。

実際に、
鳥取県米子市彦名には、
粟嶋神社が鎮座しており、
現在 米子市内と陸続きの粟嶋は、
江戸時代までは中海に浮かぶ小さな島だった。

いにしえより神の宿る山とされる粟嶋

粟嶋の分限者には子がなく、
88歳の米寿を迎えたときに
初めて子を授かったことから、
米子」の地名が発祥したという伝承もある。


茨城県東茨城郡城里町阿波山に鎮座する
阿波山上神社』の主祭神は少彦名命であり、
社伝によれば、大宝元年(701年)、
大杉に童子の姿をし、
手に粟の穂を持った神が降臨したとされる。

付近を流れる那珂川は、
常陸国風土記の那賀郡の条にもある通り、
古名を粟河と言った。


常陸国那賀郡の延喜式内社
阿波山上神社は那珂川桂川に挟まれている。

阿波徳島の旧長国にもまた、
那賀川勝浦川が流れているのである。

また、
徳島県(阿波)の勝浦
千葉県(安房)の勝浦の両方で有名なお祭りが
ビッグひな祭りなのだ。

阿波国式内社事代主神社は、
勝浦町の『生夷(いくい)神社』。

夷(ヱビス)まれた場所であり、
元の地名は『生比奈(いくひな)村』である。

渡来の神とも云われる七福神のヱビス様は
、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿
などと表記される。

蛭子(ヱビス)蛭子(ヒルコ)とも読める。


横から本殿。



境内社。




●『日置』について


阿波や忌部の痕跡を意識しながら巡ると
関東地方の何処に行っても見つかる。

埼玉県比企(ひき)郡滑川町には
淡洲(あわす)神社、大雷淡洲神社、
阿和須神社など、アワアワシマに繋がる
神社が点在している。

比企(ひき)郡は延喜式にも見える
武蔵国の古い地名で、
ワタシの実家がある東松山も元々は比企郡


比企(ひき)」の語源は「日置(ひおき)
と云われており、
日置部(ひおきべ)』という
太陽祭祀集団に関係しているという説がある。

埼玉苗字辞典では「日置」について、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日置部は神霊を迎える聖火の材料を製作し、
剣など武器鍛造の際に聖なる火を
作るために炭焼に従事した集団である。

また、ヒキのように
天を仰ぎ雨乞い祈願をしたり、
日招きをしたりして、暦を作成した。
ヒオキヘキとも称した。

忌部・斎部と同流にて、
忌部は朝廷神殿際祀に要する諸物の用具を
整える職である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちなみにヒキガエルの「ヒキ」は
漢字で「蟇(ヒキ)」と表記する。
蟇(ヒキ)」から虫を除いた冠部の」という字は、
草むらに太陽が沈んでいく様子を表し、
日暮れや夜の訪れを意味するのだそうな。



つまり、
比企郡の地名を遡ると忌部に辿りつき、
比企郡の語源である日置部
その拠点に淡洲(あわす)神社
建てたというワケである。


日置」の地名は各地に在る。
少しチョイスしてみる。

■丹後半島(京都府宮津市)に
日置」の地名あり。
丹後国風土記逸文より↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『浦嶼子』
丹後の国の風土記に曰はく、
與謝の郡、日置の里。
此の里に筒川の村あり。
此の人夫、日下部首等が先祖の名を
筒川の嶼子と云ひき。
爲人、姿容秀美しく、
風流なること類なかりき。
斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と、浦島伝承が残る地域。


■現在の和歌山県西牟婁郡白浜町には、
古くから「日置」の地名あり。

■現在の千葉県鴨川市には
安房国長狭郡日置郷の地名が在り、
日置氏が居住していた。

■現在の石川県能登半島には
能登国珠洲郡日置郷の地名が
「和名抄」記載されており、
珠洲市折戸町には日置神社が鎮座。

■現在の鳥取県鳥取市にかつて存在した
気高郡日置村
現在も日置川が流れている。

■愛知県名古屋市中区橘に鎮座する式内社
日置神社の祭神は忌部の祖天太玉命

■その他、各地の「日置」の地名は
古代の気多郡日置郷を継承したものも在る。


さらに日置(ひき)は「引(ひき)」にも
繋がって行く。

■香川県東かがわ市引田
(紀伊水道に面した地域)には、
蛭子神社が点在している。

■東かがわ市の南方、
徳島県板野郡上板町に『引野』の地名在り。



淡島神社の総本社は和歌山にあるが、
そのさらに大元は、やはり阿波国だった。

阿波(徳島)⇒紀伊(和歌山)⇒安房(千葉県)
⇒武蔵(埼玉他)という日置のルートは
阿波忌部と重なる。

引(ヒキ)」は「引(イン)」と読める。

つまり、
引部(いんべ、忌部)だった❗


そして、日置の地名が残る
石川県の『能登』や『鳥取』。

それら『日置(ひおき、ひき)
スクナビコナ』や『アワシマ』の
キーワードをかけ算すると、
さらに面白いことがわかった。






スクナビコナについてさらに調べると
とても興味深い神社が石川県神社庁の
ホームページに紹介されていた。

『能登生国玉比古神社』
鎮座地 石川県鹿島郡中能登町金丸
祭神 多気倉長命・市杵嶋姫命少彦名命

由緒↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
祭神多食倉長命は神代の昔、
能登国に巡行された大己貴命少彦名命
協力して国土の平定に神功をたてたまい、
能登の国魂の神と仰がれた。

その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は
少彦名命となって菅根彦命を生み給うた。
これ金鋺翁菅根彦命で
金丸村村主の遠祖である。
神主梶井氏はその裔である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なんと、

スクナビコナの妃が

宗像三女神の一柱である

市杵嶋姫命だった❗

能登生国玉比古神社の徒歩圏内には
宿那彦神像石(スクナヒコカミカタイシ)神社
も鎮座しており、スクナビコナの伝承が
確かに北陸に残っている。



恒例の「狛犬の見る景色」。








最後に、
スクナビコナは何故、
スクナビコではなくスクナビコナなのか。

女神だという解釈も出来るが、
この『』が何を意味するか考えてみた。

そして、
答えは阿波国風土記逸文にあった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
奈佐浦』 
阿波国風土記に記すこと。
奈佐の浦。
ナサと呼ぶわけは、
その浦の波の音が絶えず響いて止む時がない。
これによって奈佐というのである。
土地の漁師はのことをと呼ぶのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

波に流された…
あるいは、
波に乗ってやってきたために
わざわざ神名にをつけたのかもしれない。

スクナビコ


※那佐湾↑


スクナビコナは、国作りを終えたあと。
粟に弾かれて常世の国へと渡っていった。


それははたして、
あの世か、別の国なのか。。

友ヶ島は淡路島のすぐ近く。

淡路島の付近には
オノコロ島説もある沼島がある。

また、
粟嶋神社の鎮座する鳥取県米子市の真北には
隠岐の島がある。

隠岐に伝わる古史古伝
『未自由来記(いみじ・ゆらいき)』には
こう記されているという。
~~~~~~~~~~~~~~~~
昔、隠岐は小之凝呂島と称えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~

隠岐はオノコロ島と呼ばれていたことが
あったのである❗

古事記では、
イザナギとイザナミは
オノコロ島に降り立ち、
ヒルコを生み、アワシマを生んだ。

その後、島生みが始まった。

①淡道之穂之狭別島(淡路島)
②伊予之二名島(四国)
③隠伎之三子島(隠岐島)

という具合に、
島生みの三番目には隠岐が生まれている。


隠岐(おき)は
『日隠岐(ひおき)(日置)』。

日に隠れ、岐(わか)れた国。

「御隠れになる」とは
偉い人(神)がお亡くなりになることを示す。


スクナビコナが粟の穂に弾かれて
帰っていった常世の国とは、
ヒキガエルの如く「日を置く」、
「日が沈む」を意味する陰(隠)の国。


隠岐の島だったのかもしれません


つづく。

ではまた❗







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