↑のつづき。

さて、徳島の旅二日目も終盤戦。


伊比良咩神社を後にしたワタシは、
吉野川に架かる名田橋を渡って
車で10分ほど走らせた。

クシナダ姫の「名田」ですよ。



すんなりと目的地にたどり着く。



本当に、徳島県は式内社の宝庫である。



拝殿。

延喜式内小社 阿波国名方郡
『天佐自能和氣神社』
 あまさしのわけ

鎮座地 徳島県徳島市不動東町
創建 不詳
祭神
神皇産霊尊 高皇産霊尊 
日子刺肩別尊(ヒコサシノカタワケ) 
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命(オホヤマトクニアレヒメ)


元々の祭神は日子刺肩別尊の一座。

後にその母である
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命を配祀、
さらに後に神皇産霊尊と高皇産霊尊が
祀られることになったのだそうな。



天佐自能和気神社由来↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
延喜式神名記に曰く
小社座祈年国幣に預り給ふ 
古事記に言ふ孝霊天皇記に
意富夜麻登玖迩阿礼比売命
日子刺肩別命が生れ
この皇子を祭神と祭り奉りしなり
意富夜麻登玖迩阿礼比売命の父は
和知都美命と申し 安寧天皇
第二皇子師木津日子命の皇子にして
淡路御井宮に座し此の所縁などありて
日子刺肩別命淡路に近き
阿波の国高崎の地に祭り奉りしなり

古老伝説

当社例祭後二日間は諸人参拝を許さじと
往古よりの慣例なり然るに
旧別当此の例を犯し翌日参拝なせしところ
忽ちにして病を発し遂に不帰と言ふ
今に至るも例祭執行後直ちに
社殿へ注連縄を引き廻し
三日間諸人の参拝を許されません 
当社は吉野川の沿岸に位し
洪水に際しては上流数郡の濁流怒涛の如く
社地北方に深渕となり
大渦巻を起し一見人の膽を
寒からしむかかる危険の地に在りながら
往古より崩する事なく
社殿は恰も盤石の上に建つるが如し
而して洪水に当りては社殿内自ら
御神楽の音を発し水を治め給とそ 
既に明治三十二年県下未曾有の洪水なりしが
氏子ども一心に大神の加護を念じたれば
殿内自ら御神楽音高く聞こゆるや
忽ちにして水治まれりと語り伝う 
大正元年夏襲来せる大暴風雨に
吉野川氾濫し多数の犠牲者を出し
これが復旧作業として
吉野川改修工事施行に当り
沿岸に鎮座せられたる当社は
現在の地に遷座し奉り
今に至るも霊験顕著なるに恐懼し
専意尊敬常に参拝するもの絶ゆることなし
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


横から本殿。

千木は男千木。


さて、余り知られていないであろう
日子刺肩別尊について
系図を確認して頂きましょう。



日子刺肩別尊は第7代孝霊天皇の子。

つまり、
桃太郎さんのモデルである吉備津彦

倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)

とは兄弟関係。


父である孝霊天皇は日本書紀では
大日本根子彦太瓊天皇』。

瓊(二)」は玉を表す言葉。
忌部氏の祖『天太玉命』に
繋がりそうな名である。



母は意富夜麻登玖迩阿礼比売命

『阿礼(アレ)』とは
巫女の呼称だと言われており、

古事記編纂者の一人稗田阿礼
巫女だったとする説がある。

また、『意富』も需要なメッセージだが
今回は割愛いたす。


古事記では、
倭国香媛(ヤマトクニカヒメ)について
安寧天皇の曾孫であり、
淡路島出身蠅伊呂泥(ハエイロネ)
またの名を意富夜麻登玖迩阿礼比売命
と記されており、
前述した天佐自能和気神社由来とも
辻褄が合う。

簡単に言うと、
孝霊天皇淡路島から
お嫁さんをもらったのだ。

そんな孝霊天皇は、
父の孝安天皇が崩御した年に
黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に
都を移し、翌年に即位した。

黒田廬戸宮の比定地は

奈良県磯城郡田原本町黒田



さて、ここで阿波古代史のバイブル

『道は阿波より始まる』や、

敬愛するぐーたら気延日記さん

記事等に重要なことが多数記載されていた。



まず、

天佐自能和氣神社の周辺を見てみると、

徳島市国府町に

『西黒田』『東黒田』なる地名が残る。


付近に鎮座する芝原八幡神社は、

「八幡」に変えられる以前は、

孝霊天皇を祀っていたのだそうな。




また、日子刺肩別尊の兄弟姉妹であり

一部の間では卑弥呼とも言われる

倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)


香川県東かがわ市に鎮座する

式内社『水主神社』の祭神は

倭迹迹日百襲姫命であり、

社伝では↓

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

幼い頃から神意を伺い、

まじないや占い、知能に優れ、

弥生時代後期に争乱を避けるため、

7歳のときに皇居の黒田を出られ、

うつぼ船(天磐船)に乗って

8歳で水主宮内に着き住まわれ、

土人に弥生米をあたえて米作りを教え、

水路を開き、雨祈で雨を降せ

文化の興隆をなされた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と、かなり具体的な逸話が残る。


また、

水主神社の本殿右側の

御母宮『國玉神社』に

倭国香媛を祀り、

本殿後方の

御父宮『孝霊神社』に

孝霊天皇が祀られている。


倭迹迹日百襲姫命はその後、

二十歳までこの地に居たとも言われる。


同じく香川県の讃岐一宮に

倭迹迹日百襲姫命

その兄弟が祀られている理由がよくわかる。



そして、

倭迹迹日百襲姫命は出逢うのだ。


『大物主神』に。



箸墓伝説では、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となる。

しかし大物主神は昼は姿を見せず

夜にしかやってこない。


倭迹迹日百襲姫命

明朝に姿を見たいと願うと、

翌朝、大物主神は櫛笥の中に

なんと、の姿で現れた。


倭迹迹日百襲姫命

驚き叫んでしまったため、

大物主神は恥じて御諸山に登ってしまう。


倭迹迹日百襲姫命は、

後悔して腰を落とした際に、

が陰部を突いたため亡くなってしまった。


倭迹迹日百襲姫命大市に葬られ、

その墓を「箸墓」と呼ばれた。

箸墓に使われた石は、

大坂山から運ばれたものだという。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


さて、そんな『大市』だが、

阿波市には『市場町』があり、

町内には『箸供養』の地名が残り、

付近には『奈良阪』、

来たにいくと香川県との県境に

大阪峠』がある。



さらに、

蛇神大物主神と言えば

香川県仲多度郡琴平町に鎮座する

『金刀比羅宮』。


実は、

金刀比羅宮には奥の院と呼ばれる寺がある。


それが、徳島県三好市池田町に鎮座する

箸蔵寺


箸と大物主はストーリーで繋がる。



さらにさらに、

同じく日子刺肩別尊の兄弟であり

鬼退治の神稚武彦命は、

徳島市上八万町の式内社

『宅宮神社』に祀られており↓


鬼ヶ島と言われる香川県の女木島


同じく兄弟の吉備津彦は、

岡山の吉備津神社の祭神。


第7代孝霊天皇の外祖父

天押帯日子命(アメオシタラシヒコ)は、

徳島県徳島市不動西町に鎮座する

式内社『雨降(アマタラシ)神社』に

関連しており、


天押帯日子命の父である

第5代孝昭天皇の本名

観松彦香殖稲(ミマツヒコカエシネ)天皇

名を冠する式内社

御間都比古(ミマツヒコ)神社

徳島県佐那河内村に鎮座する。



これらを地図上に表すと↓


①式内社 天佐自能和氣神社

②式内社 雨降神社(天押帯日子命❓️)

③徳島市国府町東黒田(黒田廬戸宮)

④式内社 宅宮神社(稚武彦命)

⑤式内社 御間都比古神社

⑥阿波市市場町興崎箸供養(大市 箸墓)

奈良坂

大阪峠(大阪山)

⑨式内社 水主神社(倭迹迹日百襲姫命)

箸蔵寺(金刀比羅宮 奥の院)

⑪金刀比羅宮(大物主神)

⑫讃岐国一宮 田村神社(倭迹迹日百襲姫命 )

女木島(鬼ヶ島)

吉備津彦神社



四国周辺には、まだまだ

欠史八代と言われる天皇と

その一族達の痕跡が遺されている。



欠史八代の説は、

もう忘れてもよいかもしれませんね☀️



そして、
有名な箸墓伝説の比定地に関しても、
再度調査が必要だと強く感じる。


隣には境内社。



『佐賀田新宮の碑』。
そして数々の境内社が並ぶ。



阿波特有の五角形『地神塚』。


もはや、あるとホッとする。




さてさて、

阿波徳島の旅二日目も
次回で最後の神社。


そして、三日目以降も
まだまだ紹介していない面白い神社が
盛りだくさん。

お楽しみに。


つづく。

ではまた❗




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