↑のつづき。


さて、最高に素晴らしい町「浜松市」。


遠州鉄道沿いは魅力で溢れていた。


最も行きたかった『椎ヶ脇神社』から徒歩(心の中ではスキップしてた)で20分は歩いただろうか。




曇ってはきたが、天使の梯子も少し見えて…



線路を超え、見えてきた森。




やってきたのは『於呂神社』である。



入り口右側には供養塔。






長い参道。








拝殿。

『於呂神社』
静岡県浜松市北区於呂 
祭神 天津日高日子穗穗出見命
別名 天津火火出見尊

ヒコホホデミはコノハナサクヤヒメ姫の御子神である『山幸彦』。

山幸彦と言えば、竜宮で豊玉姫(椎ヶ脇神社の祭神)と出会い、海神から二つの珠を受け継いだ神。


一方で、ヒコホホデミは神武天皇の別名というところも興味深い。

於呂神社は、同じく北区の道本にも鎮座しており、そこの祭神は大国主なのだそうな。

延喜式神名帳では遠江国麁玉郡鎮座の記載がある。

かつて、遠江国麁玉郡には麁玉(あらたま)村があり、麁玉(あらたま)は有玉神社 も連想させる。

西暦718年、遠江で地震があり、山が崩れ、麁玉河が塞がれてしまったことがあった。

麁玉河とは天竜川の古い名である。


麁玉は、後に引佐(いなさ)郡となった。

出雲の国譲りの舞台「稲佐の浜」との繋がりは、北区道本の於呂神社の祭神が『大国主』だということが伝えてくれる。






翡翠色の十六菊花紋章。



横から本殿を見る。

屋根が朱色なのは珍しい造りなのだろうか。


男千木に奇数の鰹木。

祭神は男神とみて間違いなさそうである。



江戸時代には於呂大明神と称された。

また、遠江国風土記伝には、「於呂明神は麁玉川の河伯蛇神を祭ると云ふも、古言に蛇を哀呂とありて於呂とはなし」という記述があるのだそうな。

於呂は蛇の古語で、於呂(オロ)明神はオロチで蛇神ですよぉーってことなのだろうか。。



椎ヶ淵の赤大蛇は女神だった。

ここの蛇神が男神だとしたら、兄妹や家族なのかなぁ…と鉄板の妄想を繰り広げる。






境内社。





謎の壊れた建造物。



静かな良い神社でした。


於呂神社という社名はこの浜松でしか聞いたことが無いが、遠く岩手県奥州市に鎮座する「於呂閇志神社」とも関連性があるのではなかろうか。

現在は、胆沢川神社と合併し「於呂閇志胆沢川神社」となっている。

胆沢川神社は坂上田村麻呂(またタムラマロ)による勧請で、祭神は胆沢川の水速女命(ミヅハノメ)。

於呂閇志神社は、於呂閉志神社略縁起によれば、嵯峨天皇の勧請と伝えられており、 祭神は須佐男之命と木花咲耶姫命であった。

嵯峨天皇と言えば、まだ記紀が編纂されて間もない頃、「スサノオこそ日本のトップだ」と言い放った興味深い天皇である。

ワタシの中ではスサノオとコノハナサクヤヒメは同一神である。

ちなみに現在の祭神は、
神八井耳命
須佐之男命
大日靈命
誉田別命
大山祇命
大名持命
となっている。

於呂閇志神社は、その西方約10キロメートルにある猿岩を「作神」として祀ったことから始まった。

作神とはつまり『ミシャクジ』である。

天竜川を登った先には、その源流である諏訪湖がある。

岩手県には紫波(しわ)町という地名があり、「諏訪」との関連性がある気がしている。

嵯峨天皇は、古代王朝の真実を消される前に、別の場所にその手掛かりを残した…という目的で於呂閇志神社等を勧請したのだとしたら面白い。

実際に似た地名が名付けられることには、そうした側面もあるのかもしれない。


さて、また次の神社へ向かおう。

さらに、遠州鉄道で南下するのだ。


岩水寺には行けなかったが、岩水寺駅には来れた。


「にしかじま」は椎ヶ脇神社の最寄り駅。
「みやぐち」は勿論、『ミシャクジ』が語源だろう。


電車こないなぁ~と思っていて、よくよく調べたら…


この駅は天竜浜名湖鉄道の岩水寺駅…



ワタシが乗りたかったのは、遠州鉄道の岩水寺駅である🤣



間違えた。


似た名前は、時に人々を困惑させる。


つづく。

ではまた❗




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