bene vixit, bene qui latuit.
グーグルマップで真鶴の辺りを見ている。山に住むのも捨てがたいが海が見える処に住むというのは憧れのひとつ。窓をあけたら目の前に青い海が広がっていたら言うことはない。しかし、実生活としては、塩や砂で家は傷むし洗濯物も潮まみれになるというし、むしろ離れて小高い山側から遠く視線の先に海が見える程度の方が現実的か、などなど、ストリートビューを見ながら夢想している。nogawan
忘年会スルーが話題になっている。やっとそういう時代になったかと感慨深い。上司は年の瀬くらい世代をこえたコミュニケーションをとりたいと望む。若手はそんなことに時間も金もとられたくないと考える。そもそも相手に必要とされていない飲み会など成立するはずがない。なんのことはない、若手が金を払ってでも話を聞きたいと思われる上司であればそれで済む話で、そうでなければ権力のご乱用はせめて勤務時間内だけに留めるべきが健全かと。若いころ私も飲み会に来いと本気で怒鳴られた。それでも行かなかった。多分職場では記録保持者でしょう。若者の特権とも言うべきか、若いころは丹力があるものです。いまだったら間違いなく忖度します。そんなことに使う力が残っていないので。でも考えてみれば、当時の良さというのは、飲み会に来いと本気で怒られても、それが嫌がらせにまでは発展しなかった。苦々しく思われても立ち位置の違いは尊重された。そこに踏み込んでくることはなかった。みんな大人だったのです。そういう意味では今の方がどこか陰湿で怖い。それだけゆとりがないとも言えるのでしょうが。nogawan
前のブログからうっかり半年も経過してしまった。時間があるとはどういうことか。音楽を聴いていて音がよく聞き取れるということ。本を読んでいて活字の向こう側を感じられるということ。夜、眠りにつくときに明日もたっぷりと時間があると思えること。僕は自分をチューニングするときはいつも浪人時代の自分を基準にしている。予備校からの帰りに汽車(まだ汽車があったのだ)のなかで本を読んでいた自分が基準なのだ。今のこの生活はリハビリのようなものなのかも知れないとも思う。リハビリだって時間がかかる。60歳で退職したのではとても時間が足りなかっただろう。人生100年というのは眉唾だと思う。そもそも身近にそんな人いないし。自分には絶対無理だし。nogawan
天井に穴のあいてしまったノートルダム大聖堂の姿は悲しげでもそこから光が注ぐ様は美しく、これをどう再建するのか、例えば偶然にも降り注いだ光は残すだろうか、素材はまた木を使うのか、新素材にするのか、伝統と革新という古典的な問題にかの国がどう結論を出すか、その過程もも含めて興味は尽きない。さっそくフラ ンスの大富豪や企業が表明した寄付金のケタ違いの大きさに、こちらの金持ちが村の土建屋程度に思え、表立っては見えてこない彼らの底力を見た垣間見た思いがしていたら、その莫大な寄付金をむしろ貧困層対策など別なことにも使えという議論がフランス国内で出ているそうで世界共通世知辛い。nogawan
朝起きて、まさかのノートルダム大聖堂が火事というニュースの、現地からアップされる様々な動画に、燃えさかる大聖堂を遠まきに聖歌を歌う人々が映っているものがあって、もとより聖歌は歌というより祈りと考えられるとしても、まだ火が燃えている最中に歌が歌われていることに、かの国の音楽の在り方のようにものを改めて考えさせられ、もしこの国だったら、こんなときにちゃらちゃら歌なんか歌ってるんじゃねぇと殴られたりするかも知れないなどと思う自分にも音楽はないように感じられ、また消火活動の脇で歌を歌うという行為に同調圧力の強い国では考えにくい多様性を見せつけられた気がした。nogawan
今までそんなことなかったのに選挙の戸別訪問が来るようになった。公職選挙法違反である。選管に問い合わせたら定員が減って候補者もあせっているのか今回は特に酷いらしい。ところで、そうした訪問を受けた場合はどこに連絡をしたらいいのか。なんと連絡先は所轄の警察なのだそうだ。流石、敷居が高く設定されている。所轄警察のHPには連絡先は掲載されていなかった。ネットでポンというわけには当然いかないのだ。よほど意識の高い人でない限り連絡はしないだろう。それが分かっているから平気で訪問してくるのだ。だったら何ができるだろう。因みに僕はあらゆる訪問勧誘の類は応対しない。電話も基本留守電である。応対するだけ時間の無駄である。ところが、近所の人がピンポンと来て、なんだろうと思って出たら候補者を紹介されたのには驚いた。こんな手もあるのだ。ご近所さんの手前、あなたそれ法律違反ですよ、とは間 違っても言わない。笑顔でニコニコ応対する。そして、訪問してきた候補者には絶対投票しない。法律違反する人間に議員は任せられない。最低限度のラインである。そして、それが我々にできる唯一のことなのだ。nogawan
映画「ちはやふる」が素晴らしいのは、若い俳優さん達の生き生きとした演技もさることながら、千年の昔から現在を経てさらに千年先へと続いていく時間の流れを感じさせてくれることと、時間を止めることについても触れられていることだろうか。歌は詠めて当たり前の時代とは思えば贅沢だ。今回の改元フィーバーに見られるように古典への潜在的なニーズは案外強いのだから、英語を小学校で必修化するくらいならむしろ百人一首を諳んずる方がよほど有意義かとも思われ、そういえば明治生まれの人までは結構それができたようにも思われるのだが。nogawan
さすが元号に関しては未来永劫に渡って評価される事柄だけに政府も本気を出したと思われる。パソコンでは変換されない令月という言葉が「何事をするにもよい月。めでたい月」という意味であると初めて知った。もっとも今のところ、このニュースを報じるBBCでさえ令の意味を order or command としか紹介していない様子。普通に考えればそうなるだろう。国外にも正しい意味をアナウンスしないと誤解を招くかも知れない。いずれにしても、これで我々の世代もふたつ前の時代生まれとなるわけで、いよいよおじいちゃんおばあちゃん扱いされる時代でもあるのだ。nogawan
ゾンビが出てくる映画は苦手なので遅くなったけれど「カメラを止めるな!」を観た。楽しくて嬉しくて暖かい映画だった。こんな映画を作る人達がいる、そして大手配給会社の力技的大量宣伝がなくてもじわじわと口コミで評価する大勢の人達がいる、まだこの国も捨てたものじゃないかも知れない、そんな気持ちにさせられたというのが素直な気持ち。nogawan
とある企業が成果主義を強化すると報道されていたが年号が変わろうとしているのに相変わらずだなと思う。成果は全方位的だと思いたい。なんか場を和ませてくれる人や中間管理職が暴走したときもうまくなだめるお局様がいたりする。集団の場合は一方向にだけ成績がいい奴を集めてもうまくいかないことが多い。 蟻さんの例を見ても明らかだろう。うまいお茶を毎朝入れてくれる人や玄関にある観葉植物に水をあげる人をどう評価するか。「そんなこと」は派遣や外注に任せておけばいいという発想はまだ当分支配的なのだろう。いまは仕方なくても、でも将来的には昔の家族経営のような小さな集団が見直されていくのではないかと個人的には考えている。nogawan
先週末からインフルエンザで寝込む。予防接種を受けていたのに突然だった。話題のゾフルーザを処方された。熱のせいか、それとも薬のせいなのか、頭のなかでいろいろな風景が煩いくらいに移り替わって寝た気がしない。なんか疲れた。やっぱり風邪は、マンガと暖かい飲み物を用意してフトンでぬくぬくとしている程度がしみじみ有難いと思うのだ。そして、久しぶりにネットを見たら嵐活動休止の話題でいっぱい。「何事にも縛られないで、自由に生活してみたい」というリーダーの思いがよく分かる。芸術家肌と言われる彼が、それでも長くリーダーを背負って活動してきた末の結論なのだろう。このことに、何かと話題のあの社長が「自由かどうかは自分次第」と反応されていて、なるほどそれも分からなくもないけれど、人々の反応を単純化すれば「無責任」とするのが「戦前」で、「自分次第」が「昭和」、そして、どこからか沸いてきた「大野君の夏休み」という受けとめ方が「今風」といったところだろうか。もっとも、この社長さんにしても、リーダーにしても、昨年引退を発表した歌姫にしても、すでに生涯に必要な金は稼いでいる。我々は立ち位置がまず違う。nogawan
随分と前のことになるが、以前はけっこう鎌倉に通ったもので、高級自転車をレンタルしているところがあって、それで鎌倉の街をあちこち走って、小町通りで珈琲を飲むというのがお決まりだったのだが、まぁ、あれだ、自分なりに何かを探していたのかも知れない。初めて、永福寺跡を訪れたときも、史跡公園なんてなかった頃だから、どこがそうなのかもよく分からない有様で、だからそのぶん余計に昔の気配が感じられる気がして、史跡公園も良し悪しで、あれば知名度は上がるが、人の手が入ったことで昔の気配が低下するように思われてならない。最近は、足を運ぶこともなくなったので、実のところ、鎌倉にいまだ妖気の片鱗が残っているのかどうか定かではないけれど、当時の感覚では、妖気が残るのも、取り合えず西は稲村ケ崎までかなと感じられた。昔、二条の局は鎌倉を袋の中に物を入れたようにと表現したが、袋から外に出ると、急激に妖気の濃度が薄まるかのようで、鎌倉の海も、どこか湘南の様相を帯びるように感じられた。当時は、いっそ鎌倉に引っ越してしまおうかと考えることもあったが、現実的な事柄から、実現には至っていない。もし住むのであれば、袋の中ではなく、むしろ袋の外の方が難易度が低いようにも思われる。nogawan
3拍子系の音楽(8分の6拍子なども含めて)というものは、例えば基本3拍子はおよそ人間っぽくないと思われ、そのくせに喜びも悲しみもまとめて表現できるし、表現してしまうという意味で、あるいは人間が作ったものではないのかも、などということを「DESTINY 鎌倉ものがたり」で再確認した。勘違いかも知れないが、映画の終盤に「海街ダイアリー」の音がちょっぴり忍ばせてあったように思われ、だとしたら心憎いなと思われたのだが、あの映画も死というテーマを扱っており、また川端康成の『山の音』に深夜に響く山の音を死の予告かと怯える場面があるように、鎌倉という街には幽霊や魔物が共存していてもなんの不思議もないと思わせるなにかが残っていて、個人的な実感としてもまさにその通りなのだが、過去には鎌倉文士達にも影響を与えたであろうし、この映画のテイストにもなっていて、一方で鎌倉の海が何千年も前からそうであったような、救いがこの映画からも確かに感じられて、あの音は、そうした救いが海街ダイアリーにも共通することを暗示したかのようにも感じられた。黄泉の国への電車は、実は鎌倉の面前に広がる砂浜から出ていて、あんな死神に介助してもらえるなら、それも悪くない。それにしても、高畑充希さんと安藤サクラさんって、次元が違うというか、やっぱりすごい。nogawan
この時期になるといつも思うのだが、忘年会なぞに時間を使うくらいだったら、社外の人間と飲んで見聞を広めるなり、あるいは独り本でも読むなどして知見を深めるなり、あるいは家族サービスに務めるか、はたまたボランティア活動に勤しむか、上司のご機嫌を伺っているよりは、広く社会的見地からも、その方がよっぽど有益かと、つまり忘年会ってやはり世界が狭いのだ、と思われてならないのだが、山手線の新駅のネーミングがあれでは、進駐軍にアメやガムをもらった戦後派世代がご健在で、こうした考え方はまだごく少数に過ぎないのだろうと思えてならないのである。(むろん忘年会のすべてを否定するわけではないけれど、この歳になってみると、上司と呼ばれる立場になってみると、意外にもそんなことがやりたくなるもので、でも突き詰めて考えてみると、それって、どこかに不安感のようなものがあるのかも知れないなと、もしそうだとしたら、そこは高倉健さんのようにぐっと堪えるのがかっこいいのではないかと。健さんが昭和のヒーローだった理由がわかるような気がする)nogawan
音楽は必要のないもの、あるいは下郎が殿様を慰める芸のひとつ程度の認識を持つ人がまだまだ多いということが、よくよく示現した、国権の最高機関であり国民の代表機関である国会での「ピアノ弾いてくれ」というヤジ。まぁ、慣れっこだけど、慣れてもいけないかなとも思う。nogawan
Now,be brave ...and, don't look back.スターウォーズのなかの、息子を送り出す母親のセリフだそうで、映画は見ていないが、「振り返らないで」という言葉に手元に置いておきたいという感情を抑えても息子の背中を押す母親の切なさが溢れて、勿論、 映画を離れても、毎朝思い出すだけで元気がでるし泣きそうになる名言だと思う。nogawan
まさに秋の夕暮れ。空に残るうすい青と黄金色に染まる夕日の対比が美しい。三夕の歌のように秋の夕暮れはさびしさやあはれの代名詞となっているが、こうして眺めていると、ある種の豊饒さを覚える。さびしさやあはれは、これから日がさらに沈んで西の空から黄金色が消えて、残された雲が茜色に染まる、そんな微妙な時刻以降を指すのかも知れない。それまで眺めていたい気もするが、そうもいかない。昔人はこの色が消えるまでじっと眺めることもあったであろう。人生100年と威張ってみても、一瞬一瞬の時間の濃密さを代わりに捨てているのではどうしようもない。子供の頃、夕日が沈んであたりが見えなくなるまでずっと外で遊んでいた、あの五感が研ぎ澄まされていたかのような濃密な時間を思い出す。nogawan
作詞家、松本隆さんの晩年は旅人でありたいという言葉に共感する。それはこの国の晩年を生きる者の理想なのかも知れない。残念ながら現実は斃れるまで勤労に明け暮れることを期待され、このままだと、いずれ旅人さえも空想の世界のものと化すかも知れない。過去にフルムーン旅行という言葉が流行ったことがあって、鉄道会社の売り上げを狙ったものとはいえ、それでも晩年はのんびり二人で旅行しましょうというのだから、思えば夢のような話だった。調べてみたら、まだあった。そういえば、使ったことはない。nogawan
秋雨。たまたま図書館で目にとまった「日日是好日」という本についてここに書いたのは2011年だった。もう随分と前のことだ。最近、映画化された。素敵な本が映画になったと感心している。何にせよ、頭を空っぽにできるのは有難い。パソコンのCPUがフル稼働しているような状態では何も目にとまらないし新しいことも入ってこない。日々がまるで処理の連続と化してしまうかのようで実に勿体ない。最近は地図を眺める時間が増えた。nogawan
家の前に川が流れ、野菜を洗ったり、汲んだ水を花にあげたり、そんな生活の様子に見とれて、さきほどNHK「小さな旅」を最後まで観てしまったのだが、後で調べたら、画面には映っていなかった、目の前に名神高速が通っていて、大 磯の鴫立沢でも感じる、ここにこんなもの作るなよ、という絶望感。nogawan