マルクスは国家を追われフランスを経由してイギリスに渡ったのだが細君はドイツ貴族の一部であった。細君の得た遺産のほとんどを株に投資して失敗している。資産家の子供だったベンヤミンは最終的にはその点、恐ろしく悲惨な逃避行を生きた。ベンヤミンは国籍剥奪の目にあっているのだろうか。

 

メキシコで教師をしながら生きていた当時は日本国籍のまま、日本人として生きていた面もある。現在も、母の生地である築地月島や、ヤマハタの祖父が仕事場兼生活の場としていた日本橋浜町、母方の祖母が生きていた神田神保町はわたくしの精神の一部なのだが90年代末にはその辺をうろつくと一種の狼藉を感じるようになっていた。字義上の「狼藉」にさせられるのである。当時、日本のラテンアメリカ研究者たちがラテンアメリカの「免責体質」に抗議する集会を持ったのは、今振り返って、現在の日本を見るとほとんど茶番の極みであった。90年始めに高畠通敏が法学部内に国際文化学科を作った際、僕が推薦した上智出身の女性ラテンアメリカ研究者がその集会の講壇前をうろちょろしていた。母は築地市場の中で、その青年期に持っていた闊達な姿を再現できた。その日本を日本にいる国民という名の集団が軍需産業とともに蹂躙している現実がある。

 

メキシコ国籍を得て、メキシコ国立自治大学(UNAM)のマフィアとの対立を「激化」することができたのは「メキシコ国民」になったおかげである。この件は「情況」誌に書いたことがある(2010年3月号)。しかし、同時に流浪の意識が以前に増してわたくしの体内に膨らんできた。流浪のくせに小さなものへのこだわりがあり、配偶者が母のくれた古いセーターや櫛などを捨てると、とにかく捨てるのが好きな人なのだが、ぶん殴られたような気持になる。それで、よく思うのだが、「わたくしはいなくなることができる」のだ。現在もUNAMの教員労組の一角にいるのだが、キャンパス・ポリティクスにだけ熱心、忠実、臆病な連中の顔すら見たくない。かと言って、バブル以降か、以前からか、文化的倨傲を体中で現わしている日本国家の代表たちの方を向くほどお利功さんでもない。

 

今週、6月22日に出た図書新聞に高橋順一氏が、わたくしの雑文集の書評を出してくださった。高橋氏への借りが倍加したことを痛感している。「非国民マグマ」なる造語が出てきて、ははあと思ったが、ある意味、三木清がロゴスとパトスを対峙させていたような事態が、ちんけな国体化した現在の日本には乏しくなっているのだろう。メキシコ現政権のポピュリズムは、以前あったメキシコの知識人階級(旧革命の受益者層インテリ)をほぼ瓦解させている。しかし、知的新局面を現出していることも確かなのである。わたくしは日本に税金を納めていないが、メキシコでは老人なのに税務関係に時間を取られるようになっている。第二の出版はホセ・デ・モリーナという全く流浪の反体制歌手の追悼本である。金もないのに企画は目白押しで、日本交流基金に金を無心に行こうかと思って調べたら、以前、異常に意地悪をしてくれたバカが所長に復帰している。ああいう立場の連中が異常に威張り散らす日本という文化の土壌は何なんだろうか。日本の社会主義も、村山時代以降「軍事化」を支援しているが、わたくしの望んでいる新感覚の社会主義政党とは、既成憲法から着実に社会変革を示す社会主義者たちからなる、という理想のもとにある。憲法公布以降、憲法英語原文は海外に対しては「原文」のまま、開示されている。その意味で、私は憲法の示す本質的な日本人民の一人であることを、22条の国籍離脱権を持ちながら自認している。

 

 

僕は昔から書くことが嫌いではあるのに書いてきた。小学校5年の終わりごろから朝日新聞に当時連載されていた「化石は生きていた」という記事をガリ版で複製してクラスで配ったりしていた。現在でも、ソーシャル・ダーヴィニスム的な変容重視の思考法に対する根源重視の態度は変わっていない。中学の2年ごろから手紙を毎日のように書くようになっていた。書く相手は教師であったり転校していった元の同級生だった。

高校の一年目は学校に行かずにアルバイトをしたり、六本木界隈にあった喫茶店で本を読んでいた。千田是也と花田清輝が俳優座裏の喫茶店にいたのを2回見た。

しかし1967年の高校2年の時にはガリ版切りとアジびら配りが日常になった。簡便な印刷機を高校3年のとき買い、仲間無しでもアジびらを切るという行動が可能になった。これは二年間の「浪人・会社員」時代を挟んで大学時代も続けた。大学の時のガリ版を切った鉄筆が現在でも手元にある。

立教大学法学部自主講座をやっていたので、その宣伝ビラや、反旗派や中核が学内に入ってきた際にも無党派の立場からアジびらを切った。ある意味、ブログの開始をしたわけだが、個人ブログの感じではなかった。

最近の日本の状況、特に岸田という人間の言動は、財界主導の動機に基づいており、民主政治そのものからの失墜を意味するもので、ある意味ではメリアム的な「無法者」以下のチンピラのものであるが、その傾向に体制全てが傾斜している。それを支えているのは小選挙区制と組織票で、いわば「国民」の自分自身の立脚点の錯視状況がある。

そこでブログを改めてこれから開始するのだが、日本語をメキシコから書くので日常感覚がいくぶんずれているかもしれない。それでも、各方面の市民集団が「組織的迷妄」をかこっている状況は見え透いている。普遍妥当に向かう錯誤を個人に強制する傾向が日本の場合、共有されてしまっている。ある種の団体では大学や学術組織の人員だけの発言とイニシアティブが横行している。

これらの状況を統覚的に裁断するのが、このブログのトーンでもある。メキシコやラテンアメリカの状況については、国際政治の中で、日本語で書く以上、それ自身が統覚的性格を持たらざるを得ない。

 

小生の17歳からのエッセイを印行されたものを中心に書籍としました。

2月26日から最寄りの書店で手に取っていただけます。

御批判、御感想をいただければ幸いです。

山端伸英

 

地域史記録センターで編集発行したMACARIO MATUSの本をこの五月に休暇にフチタンを訪れていたCOCEIのリーダーだったレオポルド・デヒべス現ベネズエラ駐在メキシコ大使に寄贈できた。

 関係者は何も言わないが、オスカー賞にノミネイトされたメキシコ映画ROMAには、異常なほど「小津安三郎」の影響が見て取れる。スペインではアントニオ・サントスAntonio Santosの「Yasujiro Ozu」は映画関係者によく読まれており、ROMAのアルフォンソ・クアロン監督にも伝わっているだろうが、そのカメラワークとカットの取り方は小津の引き写しかとも思われるものだ。実際、アメリカやラテンアメリカではこのような映画製作思想は存在しなかったわけで、今回のROMAの評価は実際には小津の評価につながって欲しい。

 この間、メキシコでは芸能界を中心にこの映画の主演女優に対する嫌がらせが横行した。主演のジァリッツァ Yaritzaが先住民社会の出身で欧風の女優ではないことを標的にしていた。彼女の役割に対する非難は、むしろ監督や製作者に向けられるべきで小津の製作思想では原節子のような欧風女優は必要な人材だった。
 また、メキシコの現在の社会状況を考えれば、ジァリッツァの登用は非常に時宣を得た配役だったともいえる。スペイン帝国の犯罪者捨て場であったプエブラ出身の俳優セルヒオ・ゴイリSergio Goyriがその社会不安化体質そのものに彼女を「Pinche India(原住民を貶す言葉)」と表現したのは、メスティソや農村部での中国人弾圧傾向をわれわれにも思い出させる。 ネットでは彼に対する非難が大勢を占めた。

 現在の日本の異常な嘘改竄人権剥奪政治に比べてメキシコは人類史に明るい光を当てている。このような時期にROMAが現れたことには、その一歩前進をROMAのテーマにも期待すべきであろうし、日本人メキシコ在住者は小津安二郎の日本における歴史的意味をメキシコ社会に提示する必要もあるだろう。映画ROMAは1970年代におけるメキシコ市のROMA地区で中産階級の家庭に雇われた女中さんのエピソードを追っている。階級社会の中での主役の生き方を通してメキシコ社会の病巣を背景的に扱っている。