がんの「意味」 | 松野哲也の「がんは誰が治すのか」

松野哲也の「がんは誰が治すのか」

治癒のしくみと 脳の働き

がんの「意味」


 私たちは脳が意識をつくると思っています。しかし、自家製の脳量子論によれば、脳は記憶・情報を「真空」からとりいれ、それをもとに意識が拡がると考えます。
真空とは原子・分子の存在しない何もない「無」である「量子真空」に対応するものです。そこには潜在的(計算的に)に途方もないエネルギーが蓄えられています(1立方センチメートルの真空空間には地球上の海水を沸騰させるほどのエネルギーがあるそうです)。

 ハンガリー人でニューヨーク州立大学教授だったシステム工学者のアーヴィン・ラズロ (1932~)は、この量子真空を「アカシック・フィールド(Aフィールド)」と名付けました。私たちすべての行い・想念が蓄えられているとされるインドの「アーカーシャ」に由来したものです(以下ゼロ・フィールドと呼ぶことにします)。


 現在の量子力学は、この無の中で気が遠くなるほど極微の時間でたえまなく繰り返される電子と陽電子(反物質)の対生成・対消滅である「真空のゆらぎ」がみられると考えています。真空自体は変化と運動をみなぎらせた轟音(五感を超えた無意識の次元なので、人間はそれを聞くことはできませんが)に立ち騒いでいても、観測されるときには、ただのからっぽとしてふるまうことになるわけです。

 ゼロ・フィールドは宇宙空間だけではなく、私たちの脳神経の中とか身体のあらゆる部位にも存在する万物創造の根源とも考えられるものなのです。


 では同フィールドをもとにつくられた脳は何をしているのでしょうか?それはゼロ・フィールドから取り入れるとてつもない情報を減量・同調(チャンネルをあわせる)
して受信するバルブとしてはたらき、それらを独自に判断・解釈していると考えられるのです。ですから、私たちはものごとをありのままに知覚することなどできません。そうでなければ、私たちの脳は瞬時に壊滅してしまっていることでしょう。その意味で、私たちは分に過ぎた脳をもっているのです。

松野哲也の「がんは誰が治すのか」-りょくのうきん

松野哲也の「がんは誰が治すのか」-うえるしゅ


 私たちは細菌と聞くと、とても汚いものとして忌み嫌います。大腸菌と聞くと大便を想像する人もいます。薄紫色とピンクに染色した細菌は、それぞれ、皮膚と腸内に常在する緑膿菌とウエルシュ菌です。汚いでしょうか?とても幻想的で、きれいな気がしないでもありません。腸内細菌は免疫系の維持に不可欠なはたらきをしているし、皮膚常在菌が減れば細菌感染による皮膚炎も多くなります。私たちは細菌と共存しているのです。

 よい・悪いという概念も同じような2分法によるものです。そして私たちは因果関係や意味づけによる解釈がないとものごとを納得できません。


 病気は大半の人にとって都合の悪いものでしょう。とくにガンは。ガンになると、治ってほしいという期待と、このまま死んでしまうかもしれないという不安でいつも頭が占められてしまいます。


 “現在の中に涙はない。涙は過去から浮き上がるのだ。現在の中に恐怖はない。恐怖は未来からおりてくるのだ。”

 過去を振り返って悲嘆にくれたり、未来の不安を想定して打ち震えるのも、実はほかならない今現在していることなのです。しかし、脳は今(脳にとって厳密な今は存在しませんが)を生きようとはしません。生きるために、過去のできごとをもとに将来の予測を立てるようにできているためです。話は適切ではないかもしれませんが、私は常時、朝食や昼食を食べながら、よく夕食は何がよいだろうかなどと思いをめぐらせます。


 自己の消滅・滅亡を前提としたうえで、今生きる自分の存在を肯定するような立場に立つことこそが、本当の「愛」ではないでしょうか。死んでも私たちの行い・想念はゼロ・フィールドに刻印されるでしょう。「宇宙の実相」を垣間見ることにより、いってみれば、この宇宙をあるがままに肯定することによって、はじめて、私たちは自分自身の有限性を乗り越えることができるのです。


 必ずしも ガン=「死に至る病」ではありません。治るか治らないかは、ゼロ・フィールドシステムとつながることにより、<気><縁><運>が変わり、抗腫瘍免疫態勢が整うという形でフィードバックするかどうかにもかかっています。宇宙の流れに沿ったものなのです。


 現代医療は「死」を悪いもの、敗北ととらえ、一瞬でも長く生きることをよしとするところがまだあります。肉体・生命現象を五感と概念のレベルのみでとらえているからです。


 死に直面するようなガンを患うことは、「愛」に気づく貴重なサインを与えられるという意味で、必ずしも悪いこととはいいきれないのではないでしょうか。