着替えてトイレに入ると、手洗い場の鏡の前に稲垣さんが髪型を整えていたのだ。
一瞬ビックリしたが、冷静を装って鏡越しに挨拶をした。
「あ、おはようございまーす。」
すると稲垣さんも鏡ごしに俺を見て「おはよう」と、返してきたが、それは今までの稲垣さんとはかけ離れた雰囲気で、無表情かつボーっとしたまるで廃人のようだった。
仕事に入ってもフワフワした動きで、上司から何か指示をされても無表情のまま覇気のない返事で、その夜は俺も野口もあの日のようにこちらからは話しかけることもなく、稲垣さんからも我々に指示を出してくることが無いままその日を終えた。
全ての業務が終わり、いつもの様にバーテンダーサイドとテーブルを囲む準備をしていると、稲垣さんは武田さんと内田さんに「すいません、今日はお先に失礼します」と、気の抜けたような声色で独り先にあがって行ったのだ。
お疲れの乾杯をすると、内田さんが「稲垣のやつ変だったな」と、武田さんに言うと「暗かったですね。ヤナダに何か言ってきたか?」
「いいえ、俺の視界に入れてもいませんから。」
「あいつもいい勉強になったんじゃないか?もう5.6年いるんだろ?頭でっかちで融通が利かないから、今まで下のもんが付いて行かなかっただろ」と、内田さんが言うと、ベテランバーテンダーの藤間さんが「だって今まで新入社員はすぐ辞めてたじゃん!」
やっぱり新入社員が半年続いたことが無いという噂は本当だったようだ。
「おい、ヤナダは辞めんなよ〜(笑)」と、内田さんが笑いながら俺の背中を叩きながら言ってきた。
その翌日、稲垣さんが体調不良を理由に休んだ。
そしてその翌日も、まだ休むと連絡を入れて来たらしい。
結局そのまま5日間休んだ挙げ句、な、なんと!彼は退職する事となり、有休消化もあってそれ以降BARに顔を出す事は無かった。
マネージャーの話では秋田に帰ると言っていたという。
それを聞いた内田さんは、「あいつには田舎が合ってるよな。ああいう性格の奴は独りでもくもくと出来る仕事の方が向いてるだろう。」
俺もそう思った。
「ヤナダさ〜ん、稲垣さん辞めちゃったんですね。」
数日後、コンパニオンの1人、山田由紀子が話しかけてきた。
「ああ、誰から聞いた?」
「たぶん稲垣さんの最後の日、裏で辞めるからって挨拶してくれたんですけど稲垣さん泣いてて、それを見たら私も涙出てきちゃって・・・。」
「えーっ?何で泣いてたの?あ、お前のこと好きだったんじゃねえの?(笑)」
「そんな事ないですよ〜(笑)」
実際、この山田はまだ女子大生で人気があり、バーテンダーの藤間さんも狙っているようだし、常連客のとある組長もベタ惚れで、自分の横に山田をずっと立たせて仕事をさせない上ラブレターまであげていた。
ある日、山田が「これ組長から渡されたんですけど・・・。」と言って手紙を見せてきた。
「えっ?ラブレター?」
「ですかねえ・・・。」
そう言って俺に渡してきた。
「えっ?俺が読んでいいの?」
「はい。」
他の者に見られないよう、裏の片隅でパパッと読んでいると、それは赤ちゃん言葉で今度食事に行きまちょうね!とか、いろいろ誘いの言葉が赤ちゃん言葉で綴られていた。
「これヤバいよ!もし2人きりになったら何されるか分からないぞ!」
「どうしたらいいですかねぇ?」
「テーブルから離してくれないのもヤバいよな。」
「この前ホールでヤナダさんと話しているのを、カウンターで飲んでた組長が見て、藤間さんにあの男誰だ!ここに連れて来い!って言ったのを藤間さんがなだめてたって言ってましたよ。」
「へえ・・・俺はいいけど、お前はヤバいな。」
「はい・・・。」
俺もこの山田由紀子には好意を持っていただけに、この面倒な状況に思い切った発言をする。
〜つづく〜