W.イーザーの『行為としての読書 ――美的作用の理論――』の感想 | R.Gallagherの世界一面白いブログ!!

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※SNSを再開した2012年の春頃に書いた文章です。


今日は。


今回はW.イーザーの『行為としての読書 ――美的作用の理論――』をご紹介させて頂きたいと思います。

今回も友人リンクして頂いている方の以前の日記に名前が挙がっていて興味を惹かれて読もうと思いました。

このW.イーザーは、前回の『読書日記vol.3』でご紹介させて頂いた『挑発としての文学史』の著者のH.R.ヤウスと盟友関係にあり、両方の本とも翻訳者がドイツ文学者の轡田収先生なのですが、Amazonのカスタマーレビューには「文学受容理論の古典的入門書」とあり、ハードルの高そうな本ではありましたが、何とか最後まで読み終える事は出来ました。

しかしその大部分は、議論が難解過ぎて「ほうほう」と深く理解出来ないまま、ページを繰り続けただけ、と云うのが実情であります。

今回はまず、訳者あとがきからの予備知識を先にご紹介したいと思います。

前回のヤウスがフランス文学を研究対象としてきたこととは対照的に、イーザーの専門はイギリス文学です。そのため文学の生産と受容とが密着した関係にあり、実際に文学が社会的変動に機能した例もあるフランスの文学研究者だったヤウス(ドイツ人ではありますが)が「文学史」に着目したのに対し、イギリスでは十八世紀以降、新聞雑誌の文化が急速に発展し、その背景にあったパブリックとしての市民にとって文学、特に新興の小説は公開性との相関関係の中にあったようです。そのため小説は読者公衆の願望や理想に応えると同時に、自己の主張を幅広い読者になじませる必要を持っていました。この辺りに起因する小説の中での、「ありうべき」読者への呼びかけや、またはその中で発生する一種の対話の形式にイーザー(彼もドイツ人です)は注目し、こうした小説の技法を手掛かりに独自のテクスト作用理論に至ったと考えられると訳者の轡田収先生は解説しておられます。

結果として「受容理論」はヤウスとイーザーの二種類に分けられ、ヤウスが「文学史」の新たな理論を立て多様な応用の道を開いたのに対し、イーザーは文学テクストの構造の中に内包されている「読者の役割」、すなわち「内包された読者」について論じています。イーザーはヤウスが該博な文学理論と文学との知識をもって構想した理論をもとに、個人とはかかわりなく実現しうる手続き〔?〕を展開しました。ヤウスは、西側と東側の文学研究者によって議論されましたが、イーザーは文学教育のカリキュラムに採用されたらしいです。ヤウスの方が有名人ですが、イーザーの方が影響力を持っていると言えるそうです。

因みに轡田収先生はこの本の翻訳作業に取り掛かり始めた当時、イーザーの同僚に「あの本は難しい、一度読んだだけではわからない」と言われたり、ヤウスにも「イーザーのこみ入った論議を訳すのは大変ではないか」と訊ねられたりしたそうです。

それでは轡田収先生のあとがきからの受け売りはこれぐらいにして、本文の内容自体に触れたいと思います。

まず、前半部分は「虚構テクスト」や「レパートリイ」、「ストラテジー」と云ったイーザー独自(と思われる)のテクニカルタームを軸に、文学受容理論が展開されています。

しかし正直に申し上げますと、この辺りは話が入り組み過ぎていて、よく分かりませんでした。

僕が俄然読む気をそそられ始めたのは、全四部中、第三部の「読書の現象学」です。

ここからは、第四部のタイトルにもなっている「テクストと読者の相互作用」と云う、より具体的なテーマについて議論が展開され始めたからです。

勿論、これ以前に使用された前述の専門用語は出て来ますし、前半部分で展開されていた議論を前提に更なる議論が展開されている訳ですが、話の抽象度が薄まった分、まだ後半の半ばぐらいまでの方が意味が読み取れる文章が多かったです。

取り分け、読書行為における「イメージ」の機能に関する言及が始まった辺り(「イメージの情動性」)から、意味が明確に理解出来る文章が増え始めました。

ただしこの本に関して手軽且つ率直にご説明させて頂くとするなら、「文学における読者の『役割』と、その様相や機能」及び、「読書行為と云う局面におけるテクストと読者の相互作用」について論じた書物です、ぐらいの事しか今の自分には言えそうにありません。実際、第四部に入ると、それまでの議論を更に概括した言及が展開され始め、再度読み取りが困難となりました。

……全く、これぐらいのレヴェルの本をスラスラ読める程度に学力を上げない事には、自分が理想とする物書きには到底なれないぞと痛感させられました。

自分にはまだ、読みながらにして強い挫折感を味わわさせられる(「味わう」の受け身はこれで合っているんでしょうかね?ちょっと不安です)一冊です。

以前、大学時代にお世話になっていた先生がブログに「読み取れないものがあってはならない!」とお書きになっていたのですが、今になって耳が痛いです。

最後になりますが、
今回もこの本の存在をお教え頂いた僕と友人リンクをして下さっている方には、
厚く御礼申し上げます。
本当に本当に、
有り難うございましたm(_ _)m

また、その他の皆様も、
ちゃんとここまで読んで頂き、
誠に有り難うございますm(_ _)m

それではまた、
次回の日記にて!!

追伸、今回もいつもの様に面白いなと感じた箇所を箇条書きにして引用させて頂きますm(_ _)m

「読書行為こそ、テクストが作用し始める場であり、読者こそテクストに生命を与えるものである。読者は、その〈意味〉がすでに過去のものとなり、もはや自分にとって有意的ではないテクストにも生命を与える。読書においてこそ、われわれは、もはや存在せず、また未だにないものが経験でき、それとともに、全く異質なものを理解することができるのである。」

「虚構言語は、発語内的行為の基本となる性質をそなえており、それに付随する『慣習』を基盤にしている。また、ストラテジーという形で『手続き』をもっており、読者にテクストの構成条件を示す。虚構テクストの言語は、行為遂行的な性質をもつ。テクストの意味をとらえるには、異なった慣習からの選択の準拠枠を明らかにしなければならないからである。さまざまな慣習を水平に再組織し、ストラテジーによって期待を打ち破ることにより、虚構テクストは、〈発語内的な力〉を獲得する。これはテクストの潜在的な作用能力として、読者の注意を喚起するばかりか、読者をテクストに招きよせ、またテクストに反応する契機をも与える。」

「読書はどの瞬間をとっても、予覚と保有との弁証法ということができる。」

「美的経験というものは、相互作用によって成立する新たな経験を眼目とするよりは、むしろそのような経験の形成そのものを洞察する点にある。」

「テクスト理解は決して与えられるものを受動的にうけいれるだけの過程ではなく、差異を経験し、それに生産的に応答する行為である。」

「小説の映画化のように、視覚的要素は豊かになっているのに、イメージの貧困化をまねいていると感じられるような逆説的状態は、イメージ形成の性質に起因している。すなわち、イメージには、テクストが意味していても明確な形は与えていないものを想像し、理解し易くする性質がある。」

「イメージと読書とは切り離せない関係にある。といっても、イメージとしてとらえられる記号結合が主体の恣意にゆだねられているという意味ではない。もとよりイメージ内容が個人の主観に彩られていることは論外である。むしろここで重要なのは、主体が自分で作り出したイメージの脈絡にひき込まれていくという点にある。」

「テクストの意味は、テクストが語ることに基づいており、決して読者の妄想などではないが、読者が統合を行なう創造的想像力を求める。」

「意味は連続した表象行為全体にかかわっている。」

「読者はテクストからさまざまなイメージを展開し、そのようにしてえた表象対象を時間軸に沿ってテクストの意味地平へと綜合して行く。このように、テクストと読者とは相互に浸透し合う。」

「意味構成の相互主観的な構造は、社会・文化的コードないしは個人においての慣習の価値の違いに応じて、極めて多様な意味内容をもちうるものであって、それぞれが別個の意味解釈の基盤に立っている。」

「意味は、テクストのさまざまな局面に内包された指示総体であり、読むことによってしか構成しえない。他方、意味内容は、読者が自己の生活にとり入れることである。意味と意味内容、この二つが相俟って初めて、読者が異質の現実を構成するうちに、自分自身も構成されるという経験の働きは確実なものとなる。」