今晩は。
今日は友達と前の地元で日本一美味いとんかつとカレーを食べて、
帰りにコンビニでAmazonで買った石橋杏奈さんがヒロインのドラマのBlu-rayを受け取れて、
家に帰ったら角田龍平先生のオールナイトニッポンPodcastを拝聴出来て、
とても佳き1日でした。
だからこんな事はホントは自分の大事なブログに書きたくはないんです。
でも、
社会的にはアマチュアとは言え、
物を書く人間の一人として、
斬り込むべきトピックに不幸にも出会ってしまえば、
それに関する文章を綴るのが僕の流儀です。
なので書かせて頂きます。
小谷野敦の馬鹿がAmazonで雨宮まみさんの『東京を生きる』に最低評価を付けていますが、
雨宮まみさんの太宰治をも彷彿とさせる美しい文章力や、
洋服のブランド名等を飽くまでもテクスト戦略上の記号として機能させる為に自身の作品で使っていた事も理解出来ない小谷野敦は、
只の文盲の老害なんじゃないでしょうか?
例えば僕が文章を書くとすれば、
それには当然、
自分にとって最も大事な音楽に関わる「記号」を多分に使うのは、
当然の理です。
それが雨宮まみさんの場合には、
地方出身者が「東京」なる街で暮らすと言うテーマ自体や、
ファッションや恋愛と言う話題であっただけの事です。
雨宮まみさんに固有のモチーフに興味が持てなかったり、
若しくは雨宮まみさんの文章に共感が出来ない事と、
雨宮まみさんの「テクスト」の真価とを割り切って評価が出来ない小谷野敦は、
端的に「文学者」として失格でしょう。
確かに、
生前にトーク・イヴェント後のサイン会で一度だけ雨宮まみさんとお話ししましたが、
雨宮まみさんに「気取った嫌味な女」な部分は僕も感じましたし、
それをつくづく思い出していたまさにその日に訃報に触れた際の不幸な偶然の一致には驚きましたが、
そんな姿勢や態度も、
雨宮まみさんの高貴なメンタリティーの裏返しであったのだと今では思っています。
雨宮まみさんに冷ややかにあしらわれた僕自身こそが、
惨めな存在であったのでしょう。
しかし、大事な事は、
それでも僕がファンを辞める気には微塵もなれない程に、
雨宮まみさんが、
一人の文学者として貴重な存在であったと言う事実です。
それこそ僕には、
小谷野敦なんて文学者としても一人の人間としても無価値どころか有害な存在です。
その狭量な価値観と人生経験に基づいてしか、
雨宮まみさんの文章を不当に低く評価する事しか出来ないのですから。
『コンビニ人間』を芥川賞史上最高級の作品とか評している時点で、
如何に小谷野敦が偽者でインチキな存在であるかは白日の下に晒されてもいます。
僕が一番不本意なのは、
自分が書く一つの文章の中で、
雨宮まみさんと言う高貴な存在と、
小谷野敦と言う最下劣な存在の両方に言及せねばならない事です。
しかし一番悪いのは、
やはり単に人種が違うのに、
雨宮まみさんの作品を不当に低く評価した、
無知無教養な小谷野敦です。
ファッションだって、
人が生きるに当たって大事にしなければいけないトピックだぜ?
最後になりますが、
そして遅くなりましたが、
(※雨宮まみさんの御逝去と言う予想もしなかった事実を前に、僕に何が語れるのかが、ずっと分からずにいたのです)
雨宮まみさんの御逝去につきましては、
謹んで、そして心より、御冥福をお祈り致します。
追記:私事ですが、
天皇誕生日と言うこの日に、
天皇制や、
自民党が主体な国体基盤をぶっ壊してやりたいと切実に願っているこの僕が、
今回の文章を書くに至った成り行きも、
一つの宿命であり、
「必然」なんでしょうね。