「ずっと一緒にいようね」
彼の言葉はいつも決まってそう締めくくられていた。
どんなに楽しい談笑をしようが、どんなにつまらなくてささいな言い合いをしようが、彼のその言葉で私たちの会話は途切れ、そしてベッドへと逃げるようにして潜り込んだ。
彼がベッドの脇に置かれたリモコンを手に取り部屋の明かりを消す。
真っ暗となった部屋で、彼は私の身体を乱暴に抱きしめ、私は彼のその行為に最大限応える。
彼との(今では習慣化してしまったような)夜の行為に及び、お互いの身体を貪りあうようにして求め合う。
そんなことが、これから、いつまでもいつまでも何の変化もなく続くと思うと、少しの絶望が、私の周りで渦を巻いた。いつまで彼とこうして付き合い続けるつもりなのだろうか?
そんな疑問が脳裏をよぎる。
でもその質問に答えることができないのは、きっとまだ彼を好きな自分と、そうではない自分が同居しているせいだ。
だからこそ、そんな疑問がふっと脳裏をよぎった。
彼と付き合った当初、その日、初めて私たちは喧嘩をした。
ほんとにどうしようもないようなささいな理由でだったけれど、私は物凄い剣幕で彼を見つめ、さながら弾劾裁判のごとく彼を高圧的な態度で追い詰めていた。
彼は、言ってしまえば天敵と出くわしてしまった草食動物。
私の睨みが利いているいるせいで、その場から一歩も動くことができなくなっていた。
目を逸らしたいのに、逸らせばそれが最後であると、自分自身でわかっている。
だから、彼は何も言葉を発しなかった。
黙って、その場が収束していくのをじっと待っているだけだった。
彼はそういう人間なのだと、私はその時初めて認識した。
あぁ、そうか。
こいつは、こういう人間なのだな、と。
「もういいよ、ごめん。私が悪かったんだよ」
そうやって自分の非を(本当は納得などしていない、むしろ彼に謝ってもらいたいぐらいだが)認めれば、その場は落ち着く。彼との無意味な睨み合いもとりあえずは終わる。
それで良かった。
私は、もう彼と別れることを決めたのだ。
こんな子供を相手になど、したくはなかった。
「俺のほうこそ」
私がソファに腰を下ろし、右手で顔を抑えながら、疲弊した表情をあからさまに彼に見えるようにしていると、まだ立ち尽くしたままの彼が口を開いた。
彼は私を見下ろしながら、まっすぐこう言った。
「俺のほうこそ、ごめん」
それだけ言うと、彼はいつもの猫背で部屋の扉を開けると、「ずっと一緒に」と言いかけて彼は部屋を出て行った。
ドアのキイッ、という音が聞こえて、少々の間の後、ガチャン、と酷く淋しそうな音が部屋に響いた。
「だから言ったじゃない。年下の彼はダメだって」
翌日はひさしぶりの休日だった。
大学時代以来の友人の頼子と、オープンカフェのレストランで昼食を食べていた。
頼子は葱とささみの和風パスタ。私はアンチョビのパスタを頼んでいた。
「だからね、そりゃあちょっと前に? 流行ってたわよ、年下の彼を持つってのもさ」
頼子は小さな雑誌社の下請け会社で働いている。
職場はそれほど楽しくないらしい。
「前に私が関わった特集でもさ、年下の彼を持つっていうことが、トレンドだって言ってたこともあったけどさ」
「けど?」
「けどね、ホントはそんなの嘘っぱちなんだから、あんまりマスコミ踊らされてると、痛い目見るわよ」
「マスコミ関係の仕事に就いてるあなたが言っても、何の説得力もないわね」
「もう辞めたわ」
「え?」と訊き返すと、頼子は少し躊躇いがちにもう一度言った。
「もう辞めたの。あんな会社」
「なんでよ」
「なんでも」
にわかに彼女が口元で怒っているような、そんな風に見えた。
それは二度聞いた私に対するものではなくて、たぶん、職場の何かに対してだった。
「前に言ってた、あの同僚の人は?」
「…あぁ、前川さん?」
私は黙って首肯した。
「もう終わったの。だから仕事も辞めたの」
嘘だった。
彼女の中で、その前川さんという人を終わったと言ったのも、だから仕事を辞めたというのも嘘だとすぐにわかった。
彼女は嘘をつくとき、いつだって唇を触るクセがあった。
今だって、いやずっと前、私と会った瞬間から、彼女は唇を触って、離して、を繰り返していた。
「とにかく、私のことはいいでしょ。今はあんたのこと」
「別に、私のことなんて大したことじゃないでしょ」
「なによー、あんたから言い出したんじゃない」
「だって、頼子が聞くからじゃない。最近どうなのって」
「それで、やっぱ年下の彼はどうかなって悩んでるんでしょ?」
「うん」
「ねえ、私たち、もう三十路間近なのよ? そろそろこの辺で人生の決断しないとダメな時期なのよ?」
「わかってるよ」
「だったらさ、学生時代みたいにいつまでもだらだら、その辺の男と付き合ってるわけにもいかないじゃない? ここらでさ、区切りでもつけないと」
「もう男なんて懲り懲りかなー」
「なによ、一生独身宣言?」
「別に、一生ってわけじゃ」
「一生よ、だから三十路っていう一つの分岐点があるんじゃない。三十路までに結婚をして専業主婦となるか、結婚をあきらめてバリバリの仕事人間になるか」
「今時、専業主婦なんて、それこそ稀少じゃない?」
「だとしても、左手の薬指にエンゲージリングははめれるわ」
「結婚なら、マリッジリングじゃないの?」
「どっちでもいいのよ、そんなの。とにかく」頼子が語調を強めて言った。「今夜、彼には別れを告げること」
「そんな」
「あんたがいつまでも決めないからじゃない。答えは決まってるっていうのに」
「だって」
「男の前だとしっかりしてるくせに、あんたってホントあたしの前だと頼りないわよね」
頼子が笑って言った。
彼女のこの屈託のない笑顔は、大学時代から変わっていない。
頼子が腕時計に目をやると、「あっ!」と大声を張り上げた。
「もう行かなきゃ!」
「どうしたの、急に」
「ちょっと!」
「だって、仕事やめたんでしょ?」
「別件でね」慌てて彼女が立ち上がり、財布から千円札を一枚取り出すとテーブルの上に放った。「行くね」
よく見ると、今日の彼女はちょっと小奇麗だった。
あまりにわずかな変化でしかなくて、気がつくことができなかったけれど、よく見ると、ちょっと違う。
化粧の塗りもわずかに厚い。
男だろうか。
前川さん。なんて、根拠のない空想を広げた。
店の階段を下りたところで頼子は私を振り返って、手を振った。
私もそれに小さく手を振って応えた。
やがて、彼女は右手をピストルのように握り、自分のこめかみに人差し指をあてて、自殺を図る真似をした。
バーン。
彼女が声に出さずに大きな口を動かしながら言った。
それは、大学時代、私と頼子の間で決まりごとのようにしていたおまじないだった。
いつも、何かを成し遂げようとする相手に捧げるわずかながらの声援。
「自殺するよりはマシだろ」
そういう意味合いだった。
今夜、彼が来るのは11時を過ぎてからだった。
仕事が思うように捗らず、残業をしてくるとの連絡を受けた。
彼が帰ってくるまでに、私は晩御飯に彼の好物のクリームシチューを作り、ボールに簡単なサラダを盛り付け、それだけすると、あとはもうすることがなくなった。
ぼんやりしながら彼の帰りを待つ。
テレビを見るともなしに見て、手元には雑誌を広げていた。
彼を待つ時間が、こんなに長く感じることは初めてだった。
…私が、彼の帰りを待つというのも、なんだか久々な気がする。
ここのところ、いつも彼が私の帰りを待っていてくれて、彼が晩御飯を用意してくれていた。
彼の作る料理は少し味が薄くて、おいしいと呼べるような代物ではなかったけれど、いつも温かいものを作ってくれていた。冷え症の私を気遣ってくれていたのかもしれない。
そんな中で、彼が得意な料理がクリームシチューだったということが判明したのだ。
多少、味は薄かったけれども、それなりに、彼の作る料理の中では一番においしかった。
真冬の凍てつく寒さには、なんとも染み渡るおいしさだった。
「ただいまー」
彼の声がして、私は即座に立ち上がった。
玄関口で彼がいまだ穿き慣れない靴を脱ごうとしていた。
今春に市内の会社で働きはじめたばかりの、新米正社員だった。
「ただいま」
背後の私に気がついたのか、彼はもう一度そう言ってから、靴を脱いだ。
「ご飯は?」
「出来てるよ」
私たちはいつものように並んで座り、晩御飯にしては遅い夕食を摂りはじめることにした。
「おいしい」彼が心底嬉しそうにそう言った。
「よかった」私も、心底嬉しそうにそう言い返していた。
彼と並んで座って食べる晩御飯は、もう自分の中で当たり前になっていて、もし一人で食べる生活に戻ることを考えたらと思うと、ゾッとした。冬の寒さに、心まで凍てついてしまう気がした。
「やっぱり、奈央ちゃんの作る料理は上手いよ。俺のとは比べものにならない」
「当たり前でしょ」
私は、笑っていた。
彼とのそんな何気ない会話が楽しいと感じていた。
彼とした喧嘩の、その初めてした一回きりの喧嘩の原因は、きっと私のせいだった。
仕事で疲れた私が帰ってくると、いつものように彼が夕食を作ってくれていた。
その日、仕事でのトラブルのせいもあってか、私は疲弊していた上に、鬱積のようなものが溜まっていた。
彼の料理の味が(薄いだなんてことはわかっていたのにも関わらず、それでもおいしいと感じていたのに)酷く私の神経を逆なでした。
ありえない。作るな。もう来るな。何もするな。私の邪魔をするな。
脈絡のない言葉の連なりは、自分でも抑えのきかないものとなっていた。
決して彼を傷つけるつもりで言ったわけではないのに、結果的に彼を傷つけることになり、結果的に彼の心を私から離すことに繋がっていた。
彼のケータイにあった、知らない女の名前と、ベッドの上で裸で写っていた女と彼の姿。
日付は、私と喧嘩して数日が経った後のものだった。
彼を手放そうとしていたのは私ではなく、彼が私を手放そうとしていた。
私の心が彼から離れてのではなく、彼の心が私から離れているのを感じていた。
だから、私は彼と付き合い続けることが不安になっていった。
仕事にも身が入らず、四六時中彼のことを考える日さえあった。
私は、頼子に嘘をついていたのだ。
頼子が嘘をついていたように、私も嘘をついていた。
彼女は気がついていたのだろうか?
彼との別れをすすめたのは、彼が頼りないからではなく、私と彼の二人を思ってのことだったのだろうか。
頼子は今頃何をしているのだろう。
前川さんと会っているのだろうか。
それとも私の知らない別の男の人と会っているのだろうか。
「ご馳走様」
彼が両手を合わせて、食器を片付けていた。
時刻は、十二時半を指し示している。
「もう、寝る」
彼が言うと、私もそれに従った。
隣の部屋に行き、雑然とした布団に身を寄せるようにして潜り込んだ。
二人の寝汗で湿った布団の中で、私たちは服を着たまま抱き合って、私は彼の腕の中で身を潜めると、目を瞑る。
彼は少し小さな声で、ささやくように私にまた言う。
「ずっと一緒にいようね」
彼の言葉で私は心が動揺して、見えないところで自分の密やかな部分が疼き出すのを感じる。
あぁ、そうか。私はやっぱり彼が好きなのだ。
そんなことを幸せを噛みしめながら感じる。
そんな自分を別の自分が皮肉交じりにこう嘲笑する。
あなたは本当に今が幸せなの?と。
彼の腕の中は、湿った布団の中にいるせいでちょっと熱いくらいで、彼の吐き出す吐息のせいで余計に生暖かさが増して、気持ちの悪い空気を含んでいる。でも、不思議と居心地は悪くなくて、私はそんな彼の腕の中がこの世界中で一番安心できる場所なのだと、実感していた。
だからこそ、自分自身への皮肉を込めた嘲笑が悲しくて、いつまでも耳鳴りのようにその声が響いて離れなかった。こめかみにあてた人差し指に、もしピストルの弾丸が入っていたのなら、私は迷わず引き金を引いていた。
<了>
彼の言葉はいつも決まってそう締めくくられていた。
どんなに楽しい談笑をしようが、どんなにつまらなくてささいな言い合いをしようが、彼のその言葉で私たちの会話は途切れ、そしてベッドへと逃げるようにして潜り込んだ。
彼がベッドの脇に置かれたリモコンを手に取り部屋の明かりを消す。
真っ暗となった部屋で、彼は私の身体を乱暴に抱きしめ、私は彼のその行為に最大限応える。
彼との(今では習慣化してしまったような)夜の行為に及び、お互いの身体を貪りあうようにして求め合う。
そんなことが、これから、いつまでもいつまでも何の変化もなく続くと思うと、少しの絶望が、私の周りで渦を巻いた。いつまで彼とこうして付き合い続けるつもりなのだろうか?
そんな疑問が脳裏をよぎる。
でもその質問に答えることができないのは、きっとまだ彼を好きな自分と、そうではない自分が同居しているせいだ。
だからこそ、そんな疑問がふっと脳裏をよぎった。
彼と付き合った当初、その日、初めて私たちは喧嘩をした。
ほんとにどうしようもないようなささいな理由でだったけれど、私は物凄い剣幕で彼を見つめ、さながら弾劾裁判のごとく彼を高圧的な態度で追い詰めていた。
彼は、言ってしまえば天敵と出くわしてしまった草食動物。
私の睨みが利いているいるせいで、その場から一歩も動くことができなくなっていた。
目を逸らしたいのに、逸らせばそれが最後であると、自分自身でわかっている。
だから、彼は何も言葉を発しなかった。
黙って、その場が収束していくのをじっと待っているだけだった。
彼はそういう人間なのだと、私はその時初めて認識した。
あぁ、そうか。
こいつは、こういう人間なのだな、と。
「もういいよ、ごめん。私が悪かったんだよ」
そうやって自分の非を(本当は納得などしていない、むしろ彼に謝ってもらいたいぐらいだが)認めれば、その場は落ち着く。彼との無意味な睨み合いもとりあえずは終わる。
それで良かった。
私は、もう彼と別れることを決めたのだ。
こんな子供を相手になど、したくはなかった。
「俺のほうこそ」
私がソファに腰を下ろし、右手で顔を抑えながら、疲弊した表情をあからさまに彼に見えるようにしていると、まだ立ち尽くしたままの彼が口を開いた。
彼は私を見下ろしながら、まっすぐこう言った。
「俺のほうこそ、ごめん」
それだけ言うと、彼はいつもの猫背で部屋の扉を開けると、「ずっと一緒に」と言いかけて彼は部屋を出て行った。
ドアのキイッ、という音が聞こえて、少々の間の後、ガチャン、と酷く淋しそうな音が部屋に響いた。
「だから言ったじゃない。年下の彼はダメだって」
翌日はひさしぶりの休日だった。
大学時代以来の友人の頼子と、オープンカフェのレストランで昼食を食べていた。
頼子は葱とささみの和風パスタ。私はアンチョビのパスタを頼んでいた。
「だからね、そりゃあちょっと前に? 流行ってたわよ、年下の彼を持つってのもさ」
頼子は小さな雑誌社の下請け会社で働いている。
職場はそれほど楽しくないらしい。
「前に私が関わった特集でもさ、年下の彼を持つっていうことが、トレンドだって言ってたこともあったけどさ」
「けど?」
「けどね、ホントはそんなの嘘っぱちなんだから、あんまりマスコミ踊らされてると、痛い目見るわよ」
「マスコミ関係の仕事に就いてるあなたが言っても、何の説得力もないわね」
「もう辞めたわ」
「え?」と訊き返すと、頼子は少し躊躇いがちにもう一度言った。
「もう辞めたの。あんな会社」
「なんでよ」
「なんでも」
にわかに彼女が口元で怒っているような、そんな風に見えた。
それは二度聞いた私に対するものではなくて、たぶん、職場の何かに対してだった。
「前に言ってた、あの同僚の人は?」
「…あぁ、前川さん?」
私は黙って首肯した。
「もう終わったの。だから仕事も辞めたの」
嘘だった。
彼女の中で、その前川さんという人を終わったと言ったのも、だから仕事を辞めたというのも嘘だとすぐにわかった。
彼女は嘘をつくとき、いつだって唇を触るクセがあった。
今だって、いやずっと前、私と会った瞬間から、彼女は唇を触って、離して、を繰り返していた。
「とにかく、私のことはいいでしょ。今はあんたのこと」
「別に、私のことなんて大したことじゃないでしょ」
「なによー、あんたから言い出したんじゃない」
「だって、頼子が聞くからじゃない。最近どうなのって」
「それで、やっぱ年下の彼はどうかなって悩んでるんでしょ?」
「うん」
「ねえ、私たち、もう三十路間近なのよ? そろそろこの辺で人生の決断しないとダメな時期なのよ?」
「わかってるよ」
「だったらさ、学生時代みたいにいつまでもだらだら、その辺の男と付き合ってるわけにもいかないじゃない? ここらでさ、区切りでもつけないと」
「もう男なんて懲り懲りかなー」
「なによ、一生独身宣言?」
「別に、一生ってわけじゃ」
「一生よ、だから三十路っていう一つの分岐点があるんじゃない。三十路までに結婚をして専業主婦となるか、結婚をあきらめてバリバリの仕事人間になるか」
「今時、専業主婦なんて、それこそ稀少じゃない?」
「だとしても、左手の薬指にエンゲージリングははめれるわ」
「結婚なら、マリッジリングじゃないの?」
「どっちでもいいのよ、そんなの。とにかく」頼子が語調を強めて言った。「今夜、彼には別れを告げること」
「そんな」
「あんたがいつまでも決めないからじゃない。答えは決まってるっていうのに」
「だって」
「男の前だとしっかりしてるくせに、あんたってホントあたしの前だと頼りないわよね」
頼子が笑って言った。
彼女のこの屈託のない笑顔は、大学時代から変わっていない。
頼子が腕時計に目をやると、「あっ!」と大声を張り上げた。
「もう行かなきゃ!」
「どうしたの、急に」
「ちょっと!」
「だって、仕事やめたんでしょ?」
「別件でね」慌てて彼女が立ち上がり、財布から千円札を一枚取り出すとテーブルの上に放った。「行くね」
よく見ると、今日の彼女はちょっと小奇麗だった。
あまりにわずかな変化でしかなくて、気がつくことができなかったけれど、よく見ると、ちょっと違う。
化粧の塗りもわずかに厚い。
男だろうか。
前川さん。なんて、根拠のない空想を広げた。
店の階段を下りたところで頼子は私を振り返って、手を振った。
私もそれに小さく手を振って応えた。
やがて、彼女は右手をピストルのように握り、自分のこめかみに人差し指をあてて、自殺を図る真似をした。
バーン。
彼女が声に出さずに大きな口を動かしながら言った。
それは、大学時代、私と頼子の間で決まりごとのようにしていたおまじないだった。
いつも、何かを成し遂げようとする相手に捧げるわずかながらの声援。
「自殺するよりはマシだろ」
そういう意味合いだった。
今夜、彼が来るのは11時を過ぎてからだった。
仕事が思うように捗らず、残業をしてくるとの連絡を受けた。
彼が帰ってくるまでに、私は晩御飯に彼の好物のクリームシチューを作り、ボールに簡単なサラダを盛り付け、それだけすると、あとはもうすることがなくなった。
ぼんやりしながら彼の帰りを待つ。
テレビを見るともなしに見て、手元には雑誌を広げていた。
彼を待つ時間が、こんなに長く感じることは初めてだった。
…私が、彼の帰りを待つというのも、なんだか久々な気がする。
ここのところ、いつも彼が私の帰りを待っていてくれて、彼が晩御飯を用意してくれていた。
彼の作る料理は少し味が薄くて、おいしいと呼べるような代物ではなかったけれど、いつも温かいものを作ってくれていた。冷え症の私を気遣ってくれていたのかもしれない。
そんな中で、彼が得意な料理がクリームシチューだったということが判明したのだ。
多少、味は薄かったけれども、それなりに、彼の作る料理の中では一番においしかった。
真冬の凍てつく寒さには、なんとも染み渡るおいしさだった。
「ただいまー」
彼の声がして、私は即座に立ち上がった。
玄関口で彼がいまだ穿き慣れない靴を脱ごうとしていた。
今春に市内の会社で働きはじめたばかりの、新米正社員だった。
「ただいま」
背後の私に気がついたのか、彼はもう一度そう言ってから、靴を脱いだ。
「ご飯は?」
「出来てるよ」
私たちはいつものように並んで座り、晩御飯にしては遅い夕食を摂りはじめることにした。
「おいしい」彼が心底嬉しそうにそう言った。
「よかった」私も、心底嬉しそうにそう言い返していた。
彼と並んで座って食べる晩御飯は、もう自分の中で当たり前になっていて、もし一人で食べる生活に戻ることを考えたらと思うと、ゾッとした。冬の寒さに、心まで凍てついてしまう気がした。
「やっぱり、奈央ちゃんの作る料理は上手いよ。俺のとは比べものにならない」
「当たり前でしょ」
私は、笑っていた。
彼とのそんな何気ない会話が楽しいと感じていた。
彼とした喧嘩の、その初めてした一回きりの喧嘩の原因は、きっと私のせいだった。
仕事で疲れた私が帰ってくると、いつものように彼が夕食を作ってくれていた。
その日、仕事でのトラブルのせいもあってか、私は疲弊していた上に、鬱積のようなものが溜まっていた。
彼の料理の味が(薄いだなんてことはわかっていたのにも関わらず、それでもおいしいと感じていたのに)酷く私の神経を逆なでした。
ありえない。作るな。もう来るな。何もするな。私の邪魔をするな。
脈絡のない言葉の連なりは、自分でも抑えのきかないものとなっていた。
決して彼を傷つけるつもりで言ったわけではないのに、結果的に彼を傷つけることになり、結果的に彼の心を私から離すことに繋がっていた。
彼のケータイにあった、知らない女の名前と、ベッドの上で裸で写っていた女と彼の姿。
日付は、私と喧嘩して数日が経った後のものだった。
彼を手放そうとしていたのは私ではなく、彼が私を手放そうとしていた。
私の心が彼から離れてのではなく、彼の心が私から離れているのを感じていた。
だから、私は彼と付き合い続けることが不安になっていった。
仕事にも身が入らず、四六時中彼のことを考える日さえあった。
私は、頼子に嘘をついていたのだ。
頼子が嘘をついていたように、私も嘘をついていた。
彼女は気がついていたのだろうか?
彼との別れをすすめたのは、彼が頼りないからではなく、私と彼の二人を思ってのことだったのだろうか。
頼子は今頃何をしているのだろう。
前川さんと会っているのだろうか。
それとも私の知らない別の男の人と会っているのだろうか。
「ご馳走様」
彼が両手を合わせて、食器を片付けていた。
時刻は、十二時半を指し示している。
「もう、寝る」
彼が言うと、私もそれに従った。
隣の部屋に行き、雑然とした布団に身を寄せるようにして潜り込んだ。
二人の寝汗で湿った布団の中で、私たちは服を着たまま抱き合って、私は彼の腕の中で身を潜めると、目を瞑る。
彼は少し小さな声で、ささやくように私にまた言う。
「ずっと一緒にいようね」
彼の言葉で私は心が動揺して、見えないところで自分の密やかな部分が疼き出すのを感じる。
あぁ、そうか。私はやっぱり彼が好きなのだ。
そんなことを幸せを噛みしめながら感じる。
そんな自分を別の自分が皮肉交じりにこう嘲笑する。
あなたは本当に今が幸せなの?と。
彼の腕の中は、湿った布団の中にいるせいでちょっと熱いくらいで、彼の吐き出す吐息のせいで余計に生暖かさが増して、気持ちの悪い空気を含んでいる。でも、不思議と居心地は悪くなくて、私はそんな彼の腕の中がこの世界中で一番安心できる場所なのだと、実感していた。
だからこそ、自分自身への皮肉を込めた嘲笑が悲しくて、いつまでも耳鳴りのようにその声が響いて離れなかった。こめかみにあてた人差し指に、もしピストルの弾丸が入っていたのなら、私は迷わず引き金を引いていた。
<了>