「ずっと一緒にいようね」
彼の言葉はいつも決まってそう締めくくられていた。
どんなに楽しい談笑をしようが、どんなにつまらなくてささいな言い合いをしようが、彼のその言葉で私たちの会話は途切れ、そしてベッドへと逃げるようにして潜り込んだ。
彼がベッドの脇に置かれたリモコンを手に取り部屋の明かりを消す。
真っ暗となった部屋で、彼は私の身体を乱暴に抱きしめ、私は彼のその行為に最大限応える。
彼との(今では習慣化してしまったような)夜の行為に及び、お互いの身体を貪りあうようにして求め合う。
そんなことが、これから、いつまでもいつまでも何の変化もなく続くと思うと、少しの絶望が、私の周りで渦を巻いた。いつまで彼とこうして付き合い続けるつもりなのだろうか?
そんな疑問が脳裏をよぎる。
でもその質問に答えることができないのは、きっとまだ彼を好きな自分と、そうではない自分が同居しているせいだ。
だからこそ、そんな疑問がふっと脳裏をよぎった。

彼と付き合った当初、その日、初めて私たちは喧嘩をした。
ほんとにどうしようもないようなささいな理由でだったけれど、私は物凄い剣幕で彼を見つめ、さながら弾劾裁判のごとく彼を高圧的な態度で追い詰めていた。
彼は、言ってしまえば天敵と出くわしてしまった草食動物。
私の睨みが利いているいるせいで、その場から一歩も動くことができなくなっていた。
目を逸らしたいのに、逸らせばそれが最後であると、自分自身でわかっている。
だから、彼は何も言葉を発しなかった。
黙って、その場が収束していくのをじっと待っているだけだった。
彼はそういう人間なのだと、私はその時初めて認識した。
あぁ、そうか。
こいつは、こういう人間なのだな、と。
「もういいよ、ごめん。私が悪かったんだよ」
そうやって自分の非を(本当は納得などしていない、むしろ彼に謝ってもらいたいぐらいだが)認めれば、その場は落ち着く。彼との無意味な睨み合いもとりあえずは終わる。
それで良かった。
私は、もう彼と別れることを決めたのだ。
こんな子供を相手になど、したくはなかった。
「俺のほうこそ」
私がソファに腰を下ろし、右手で顔を抑えながら、疲弊した表情をあからさまに彼に見えるようにしていると、まだ立ち尽くしたままの彼が口を開いた。
彼は私を見下ろしながら、まっすぐこう言った。
「俺のほうこそ、ごめん」
それだけ言うと、彼はいつもの猫背で部屋の扉を開けると、「ずっと一緒に」と言いかけて彼は部屋を出て行った。
ドアのキイッ、という音が聞こえて、少々の間の後、ガチャン、と酷く淋しそうな音が部屋に響いた。

「だから言ったじゃない。年下の彼はダメだって」
翌日はひさしぶりの休日だった。
大学時代以来の友人の頼子と、オープンカフェのレストランで昼食を食べていた。
頼子は葱とささみの和風パスタ。私はアンチョビのパスタを頼んでいた。
「だからね、そりゃあちょっと前に? 流行ってたわよ、年下の彼を持つってのもさ」
頼子は小さな雑誌社の下請け会社で働いている。
職場はそれほど楽しくないらしい。
「前に私が関わった特集でもさ、年下の彼を持つっていうことが、トレンドだって言ってたこともあったけどさ」
「けど?」
「けどね、ホントはそんなの嘘っぱちなんだから、あんまりマスコミ踊らされてると、痛い目見るわよ」
「マスコミ関係の仕事に就いてるあなたが言っても、何の説得力もないわね」
「もう辞めたわ」
「え?」と訊き返すと、頼子は少し躊躇いがちにもう一度言った。
「もう辞めたの。あんな会社」
「なんでよ」
「なんでも」
にわかに彼女が口元で怒っているような、そんな風に見えた。
それは二度聞いた私に対するものではなくて、たぶん、職場の何かに対してだった。
「前に言ってた、あの同僚の人は?」
「…あぁ、前川さん?」
私は黙って首肯した。
「もう終わったの。だから仕事も辞めたの」
嘘だった。
彼女の中で、その前川さんという人を終わったと言ったのも、だから仕事を辞めたというのも嘘だとすぐにわかった。
彼女は嘘をつくとき、いつだって唇を触るクセがあった。
今だって、いやずっと前、私と会った瞬間から、彼女は唇を触って、離して、を繰り返していた。
「とにかく、私のことはいいでしょ。今はあんたのこと」
「別に、私のことなんて大したことじゃないでしょ」
「なによー、あんたから言い出したんじゃない」
「だって、頼子が聞くからじゃない。最近どうなのって」
「それで、やっぱ年下の彼はどうかなって悩んでるんでしょ?」
「うん」
「ねえ、私たち、もう三十路間近なのよ? そろそろこの辺で人生の決断しないとダメな時期なのよ?」
「わかってるよ」
「だったらさ、学生時代みたいにいつまでもだらだら、その辺の男と付き合ってるわけにもいかないじゃない? ここらでさ、区切りでもつけないと」
「もう男なんて懲り懲りかなー」
「なによ、一生独身宣言?」
「別に、一生ってわけじゃ」
「一生よ、だから三十路っていう一つの分岐点があるんじゃない。三十路までに結婚をして専業主婦となるか、結婚をあきらめてバリバリの仕事人間になるか」
「今時、専業主婦なんて、それこそ稀少じゃない?」
「だとしても、左手の薬指にエンゲージリングははめれるわ」
「結婚なら、マリッジリングじゃないの?」
「どっちでもいいのよ、そんなの。とにかく」頼子が語調を強めて言った。「今夜、彼には別れを告げること」
「そんな」
「あんたがいつまでも決めないからじゃない。答えは決まってるっていうのに」
「だって」
「男の前だとしっかりしてるくせに、あんたってホントあたしの前だと頼りないわよね」
頼子が笑って言った。
彼女のこの屈託のない笑顔は、大学時代から変わっていない。
頼子が腕時計に目をやると、「あっ!」と大声を張り上げた。
「もう行かなきゃ!」
「どうしたの、急に」
「ちょっと!」
「だって、仕事やめたんでしょ?」
「別件でね」慌てて彼女が立ち上がり、財布から千円札を一枚取り出すとテーブルの上に放った。「行くね」
よく見ると、今日の彼女はちょっと小奇麗だった。
あまりにわずかな変化でしかなくて、気がつくことができなかったけれど、よく見ると、ちょっと違う。
化粧の塗りもわずかに厚い。
男だろうか。
前川さん。なんて、根拠のない空想を広げた。
店の階段を下りたところで頼子は私を振り返って、手を振った。
私もそれに小さく手を振って応えた。
やがて、彼女は右手をピストルのように握り、自分のこめかみに人差し指をあてて、自殺を図る真似をした。
バーン。
彼女が声に出さずに大きな口を動かしながら言った。
それは、大学時代、私と頼子の間で決まりごとのようにしていたおまじないだった。
いつも、何かを成し遂げようとする相手に捧げるわずかながらの声援。
「自殺するよりはマシだろ」
そういう意味合いだった。

今夜、彼が来るのは11時を過ぎてからだった。
仕事が思うように捗らず、残業をしてくるとの連絡を受けた。
彼が帰ってくるまでに、私は晩御飯に彼の好物のクリームシチューを作り、ボールに簡単なサラダを盛り付け、それだけすると、あとはもうすることがなくなった。
ぼんやりしながら彼の帰りを待つ。
テレビを見るともなしに見て、手元には雑誌を広げていた。
彼を待つ時間が、こんなに長く感じることは初めてだった。
…私が、彼の帰りを待つというのも、なんだか久々な気がする。
ここのところ、いつも彼が私の帰りを待っていてくれて、彼が晩御飯を用意してくれていた。
彼の作る料理は少し味が薄くて、おいしいと呼べるような代物ではなかったけれど、いつも温かいものを作ってくれていた。冷え症の私を気遣ってくれていたのかもしれない。
そんな中で、彼が得意な料理がクリームシチューだったということが判明したのだ。
多少、味は薄かったけれども、それなりに、彼の作る料理の中では一番においしかった。
真冬の凍てつく寒さには、なんとも染み渡るおいしさだった。
「ただいまー」
彼の声がして、私は即座に立ち上がった。
玄関口で彼がいまだ穿き慣れない靴を脱ごうとしていた。
今春に市内の会社で働きはじめたばかりの、新米正社員だった。
「ただいま」
背後の私に気がついたのか、彼はもう一度そう言ってから、靴を脱いだ。
「ご飯は?」
「出来てるよ」
私たちはいつものように並んで座り、晩御飯にしては遅い夕食を摂りはじめることにした。
「おいしい」彼が心底嬉しそうにそう言った。
「よかった」私も、心底嬉しそうにそう言い返していた。
彼と並んで座って食べる晩御飯は、もう自分の中で当たり前になっていて、もし一人で食べる生活に戻ることを考えたらと思うと、ゾッとした。冬の寒さに、心まで凍てついてしまう気がした。
「やっぱり、奈央ちゃんの作る料理は上手いよ。俺のとは比べものにならない」
「当たり前でしょ」
私は、笑っていた。
彼とのそんな何気ない会話が楽しいと感じていた。
彼とした喧嘩の、その初めてした一回きりの喧嘩の原因は、きっと私のせいだった。
仕事で疲れた私が帰ってくると、いつものように彼が夕食を作ってくれていた。
その日、仕事でのトラブルのせいもあってか、私は疲弊していた上に、鬱積のようなものが溜まっていた。
彼の料理の味が(薄いだなんてことはわかっていたのにも関わらず、それでもおいしいと感じていたのに)酷く私の神経を逆なでした。
ありえない。作るな。もう来るな。何もするな。私の邪魔をするな。
脈絡のない言葉の連なりは、自分でも抑えのきかないものとなっていた。
決して彼を傷つけるつもりで言ったわけではないのに、結果的に彼を傷つけることになり、結果的に彼の心を私から離すことに繋がっていた。
彼のケータイにあった、知らない女の名前と、ベッドの上で裸で写っていた女と彼の姿。
日付は、私と喧嘩して数日が経った後のものだった。
彼を手放そうとしていたのは私ではなく、彼が私を手放そうとしていた。
私の心が彼から離れてのではなく、彼の心が私から離れているのを感じていた。
だから、私は彼と付き合い続けることが不安になっていった。
仕事にも身が入らず、四六時中彼のことを考える日さえあった。
私は、頼子に嘘をついていたのだ。
頼子が嘘をついていたように、私も嘘をついていた。
彼女は気がついていたのだろうか?
彼との別れをすすめたのは、彼が頼りないからではなく、私と彼の二人を思ってのことだったのだろうか。
頼子は今頃何をしているのだろう。
前川さんと会っているのだろうか。
それとも私の知らない別の男の人と会っているのだろうか。
「ご馳走様」
彼が両手を合わせて、食器を片付けていた。
時刻は、十二時半を指し示している。
「もう、寝る」
彼が言うと、私もそれに従った。
隣の部屋に行き、雑然とした布団に身を寄せるようにして潜り込んだ。
二人の寝汗で湿った布団の中で、私たちは服を着たまま抱き合って、私は彼の腕の中で身を潜めると、目を瞑る。
彼は少し小さな声で、ささやくように私にまた言う。
「ずっと一緒にいようね」
彼の言葉で私は心が動揺して、見えないところで自分の密やかな部分が疼き出すのを感じる。
あぁ、そうか。私はやっぱり彼が好きなのだ。
そんなことを幸せを噛みしめながら感じる。
そんな自分を別の自分が皮肉交じりにこう嘲笑する。
あなたは本当に今が幸せなの?と。
彼の腕の中は、湿った布団の中にいるせいでちょっと熱いくらいで、彼の吐き出す吐息のせいで余計に生暖かさが増して、気持ちの悪い空気を含んでいる。でも、不思議と居心地は悪くなくて、私はそんな彼の腕の中がこの世界中で一番安心できる場所なのだと、実感していた。
だからこそ、自分自身への皮肉を込めた嘲笑が悲しくて、いつまでも耳鳴りのようにその声が響いて離れなかった。こめかみにあてた人差し指に、もしピストルの弾丸が入っていたのなら、私は迷わず引き金を引いていた。

                                               <了>
「かずー! 荷造り終わったー?」
「もうちょっとーっ!」
「早くしてねー! 引越し屋さん来ちゃうよー!」
「うーん…!」
僕とかおりは先月、結婚したばかりだ。
なぜ結婚してから引っ越すことになったのかと言うと、それほど深くはないワケがある。
それはある日の夜のことだった。
僕が仕事から帰ってくると、かおりが神妙な面持ちで僕を見つめていた。
「ちょっとそこに座って」と言われ、久々の残業で疲れていた僕は冷蔵庫からビールを取り出すところだった。
時刻は夜半の1時をゆうに回っていた。
そんな時間にかおりが起きていることも稀だったことに、今さら苦笑する。
なぜならかおりは夜の10時には眠気が襲ってくる、その歳にしては希有な人間だった。
「どうした?」
「いいから」
かおりの重々しい口調に幾分か落ち着かなかった。
もしかして別れ話だろうか、との考えが脳裏を過ぎった。
「なんだよ、一体」
僕がそう訊いても、彼女は答えてはくれなかった。
代わりに、大きな息を吸うと、夜中に出すにははばかられるくらいの大きな声で、
「赤ちゃんができたの!」
と言った。
「…」
頭の中でポカーン、という効果音が鳴り響いた。
吸い込まれていくようにその音がむなしく消えていくと、今度はかおりの声が鼓膜を震わした。「かず?」
恐る恐る僕を見るかのようなその瞳に、僕はまともな反応ができないでいた。「かず?」
もう一度名前を呼ばれたところで意識を取り戻した。
僕は顔面の筋肉を一杯使って彼女に笑顔を見せた。
声には出さなかったけれど、僕の顔はきっとニンマリと笑っていた。
それが作り笑いだという勘違いを彼女がしなかったことに、僕は彼女の笑顔を見てわかった。
僕は心底嬉しかった。彼女との子供は僕にとってとても幸せなことだった。
でも元来、僕は自然と笑う、ということができないでいた。
ふいの笑顔ならできる。
本当に嬉しくてもできる。
ただ、こんな風に改まられると、なぜだかその場の雰囲気に圧倒されて、嬉しいのに、自然と笑みがこぼれない。
そんな言い訳をしたって誰も信じちゃくれないのはわかってる。
だから、はなから期待などしていない。
「やった!」
「やった!」
僕がそう言うと、彼女も同じ言葉ではしゃいだ。
「やった!」
「やったーっ!」
もう一度繰り返して、彼女は夜中だというのも構わず立ち上がって、ベランダに出て大声で叫んだ。
夜の空に向かって、彼女が「やったーっ!」とまた叫んだ。
僕もベランダに出て、彼女を背後から抱きしめた。
小さな身体から、小さな生命が一つ、生まれた。
僕らの子供だ。
僕がそう言うと、彼女もまた言った。
「私たちの子供」
もう一度ギュッと強く抱きしめてから、僕は彼女の首筋にキスをした。
真冬の空気は冷たくて、僕らは身を寄せ合うようにしてお互いの身体をくっつけた。
彼女が言った。
「名前、どうしようか」
「もうわかってるのか? どっちか」
「まだ」
「気が早いよ」
僕らは笑って、そして今度は口づけを交し合った。

「つまり、出来ちゃった婚だったわけだ」
目の前にいるのは高校時代の友人の直井だった。
「まあ、な」
かおりは出産報告のため、しばらくは実家に戻っている。
なぜしばらくか、というとこんな機会しかないし、どうせなら母親としての先輩にアドバイスでも受けてくれば、と僕が提案した。
するとかおりからも提案を持ちかけられた。
だったら帰る日の初日、僕も一緒に来てくれと。
「なぜだい?」と答えると、「だってうちのお母さんに娘さんをくださいって言わなきゃ」と提案されてしまった。
かおりの父親は彼女が幼い頃に亡くなっており、女手一つでかおりを立派に育て上げた。
そんなかおりを育て上げた母親の顕子さんを僕は心から好いていた。
何よりも、かおりと同じく料理が上手いので、僕は彼女の実家にお邪魔するたびに顕子さんの作る料理の数々に舌鼓を打っていた。
かおりには申し訳ないが、正直顕子さんのほうが料理は上手い。
かおりもとても上手なのだが、顕子さんは段違いの上手さだった。
顕子さんへの一通りの儀礼的な報告が(事後報告としか言えないようなものだが)終わると、僕らはいつものように顕子さんの料理をご馳走になった。
帰り際、かおりが玄関口で言った。
「2週間くらいで帰るけど、浮気はダメよ、ダーリン」
「するかよ、ハニー」
と新婚らしい滑稽なワンシーンを演じると、僕らは笑ってさよならした。
「じゃね」
「あぁ。しっかり料理の腕でも磨いてくれ」
「ばーか」
僕は仕事があるのでたまの仕事帰りだったり、週末の休日を使って彼女のもとを訪れることにしていた。
彼女の実家は僕らの住む市内から車で30分程度のところにあるからそれほど苦痛でもない。
実に立地条件のいい場所だった。
と、いうもの僕らの新しい新居を紹介してくれたのが、まさに顕子さんだったのだから、当たり前と言えば当たり前だったのかもしれない。
「お母さんがね、知り合いに一軒家の空き家を持ってる人がいるって」
「うん」
「で、そこをただで貸してくれるんだって」
「マジで?」
「もう長いこと使ってないらしいし、私たちもしばらく、子供がある程度大きくなるまでは大変だと思うの。ましては初めは慣れないことばかりだろうし。それにね、そこならうちの実家まで車でたったの30分よ?30分」
「へぇ」
「だから、ね? ずっとそこで暮らすわけじゃないんだしさ、お金もないじゃない? だから」
「引っ越すか」
「うんっ」
と、いうわけで彼女の妊娠が発覚してから1ヶ月後、僕らは晴れて正式な夫婦となり、その1ヶ月後には新居へと引越した。
「まさに目まぐるしい期間だったな」
「それほどでも」
「ありゃ」
直井が少し拍子抜けしたように言った。
「だって夫婦っつっても生活はこれまでと変わらないし、あぁ、あいつが仕事辞めたくらいか。それに物もそれほどなかったからな、引越しも楽なもんだったよ」
「家電一式、新しい家にあったんだって?」
「そ。ほとんどの家電何から何まで揃っててよ、こっちとしてはラッキーって感じ」
「運のいい奴め」
「結婚式、来てくれよな」
「やるのか」
「小さなパーティー程度のだけどな、一応」
「俺は高校時代の友人代表ってやつか」
「スピーチ、任せるぞ」
「どんとこい」
はははっ。
高校時代の懐かしい思い出の一つは、彼がある人気テレビドラマの主役に似ている、ということだった。
そして彼はその主役の真似をするのが上手かった。
その主役の口癖が、どんとこい、だったわけだ。
懐かしいな。
僕が言うと彼も言った。
「あぁ、ホントだな」
彼はきっとその主役の真似事をしていたことを言っているのだろうが、僕は違った。
君との日々が懐かしい、と言ったのだ。
そして、高校時代の淡く切ない恋を。

新居へと引っ越す日、僕はまだ終わっていない荷造りに勤しみながら、机の奥底に眠っていた一つの封筒を見つけた。
その白い封筒は所々が黒ずんでいて、切手も、宛名も書かれていない。
少しだけ膨らみがあるのがわかった。
僕はその封を開けるまで、中身に何が入っているのかをすっかり忘れていた。
机の上からハサミを掴むと、丁寧に封筒を開けた。
中には、一通の婚姻届が入っていた。
拙い字で僕の名前と当時済んでいた実家の住所、性別、年齢、その他様々なことが書かれてあった。
隣には当時の彼女側のことが記載されてある。
そして、印鑑だけはお互いに捺印せずにいた。
最後に、役所で出すときに押そう、と二人で決めた約束だった。
僕らは、結婚する約束をしていた。

「おかえり」
今日で新居に住まいを移してから1ヶ月が経とうとしているところだった。
かおりは実家から帰ってきており、お腹もかすかではあるが端から見てわかるくらいに大きくなっていた。
「最近お腹空いちゃって空いちゃって…」
「元気な赤ん坊でなによりさ」
「でも、太っちゃう」
「お産が終われば痩せるさ。人間を一人抱えているようなもんなんだから」
「でも…」
心配そうに俯く彼女に僕は言った。
手を取って、真正面から彼女を見据えて。
「僕はさ、君がどんなに心配しても、君しか愛さないよ。だって夫婦になったんだもの」
「夫婦だから」
「ん?」
「夫婦だから、いつまでも恋人気分ではいられないでしょ? だから…」
「そうだったのか。ごめんね、わかってあげられなくて…」
彼女はマリッジブルーだったのだ。
実際はそんな言葉が今の状況に適した言葉ではないことくらいわかってはいるが、それは遅すぎた青春を迎える人のように、彼女もまた遅すぎたマリッジブルーを迎えたというわけだ。
結婚に対する不安など、考えている余裕などなかったのだろう。
僕らは目まぐるしい時間の中で、ただ無我夢中でやるべきことをやってきた。
そして、ようやく落ち着いてきた頃、彼女にも結婚を考える心の余裕ができた。
すでに結婚をし、出産を控えた身となっては、逃げ場のない悩みを抱いていたはずだ。
僕はそれを気付けずにいた。
何とも至らない夫だと思った。
「ごめんな」
「ううん。もう大丈夫」
僕は彼女を抱きしめて、頭を撫でてやった。
僕の大きな手が、彼女が好きだと言ってくれた。
その大きな手が私を安心させる。
あなたを感じられる。
それは僕にとって何よりもの褒め言葉だった。

封筒を手にした僕は、会社を休んで、ある場所へと向かっていた。
かおりは今頃実家で母親とともに仲むつまじく過ごしていることだろう。
僕が勝手に会社を休んだことにいたたまれない気になったが、どうしようもなかった。
今日でなけければいけなかったのだ。

「あんたか、大沢さんてのは」
「すみません、今日は無理を言って…」
「いや、どうせもう人も住んでないしな」
すみません、ともう一度言ってから僕はおじいさんの後に続いた。
おじいさんは70歳くらいの、白髪の老人だった。
頭のてっぺんが薄くなり、地肌も見えているどこにでもいそうな老人だった。
服装もシャツにベスト、下はクリーム色のズボンという井出達だった。
「でもあんたも、変な人だな」
「はい?」
「ここに住んでたわけでもないだろ?」
「え…えぇ…」
歯切れの悪い僕の答えに、おじいさんは僕を見て少し考え込んだ。
「いや、…違うか」
とにかく、とおじいさんは続けた。
「ここを出るときは下のあの家に来てくれ」
とおじいさんはアパートから数メートルしか離れていない日本家屋の一軒家を指し示した。
そうやらそこが彼の住まいらしい。
鍵を開けると、おじいさんは何も言わずに階段を下りていった。
僕はそれを見届けてから、部屋のドアを開けた。

部屋の中は殺風景としか言いようがなかった。
玄関のすぐ隣にはキッチンがあった。
フローリングの床が5畳ほどで、襖で仕切れるようになっている奥の部屋は畳張りの部屋が7畳ほど広がっていた。
昔のまま、何も変わっていなかった。
僕はゆっくりとその部屋を噛みしめるように歩いた。
部屋を流れる空気を感じとり、かつて暮らした日々の光景を瞼の裏に思い出した。
「ここだ」
目を瞑ったままの僕は突如立ち止まり、そして左手にあった壁をゆっくりとノックした。
コンコン、と乾いた音が聞こえるだけで、大した変化はない。
ただ、一箇所だけ他とは違う音のする部分があった。
他の部分よりもさらに乾いた音のする壁。
わずか縦横10センチもないような正方形の穴の中に僕の探し物はあった。
壁は黒い染みが所々についた、年季の入った白い壁だった。
築何十年も経っているのだろうか。
作りも甘い。
だから、少し大きな声を上げただけで隣の部屋には声が丸聞こえだった。
持ってきたカッターでその最も乾いた音のする壁の部分に刃を入れ始めた。
丁寧に、ゆっくりと、それは僕の高校時代の痕跡だった。
僕と6歳上の彼女、琴子とのたった数ヶ月間の痕跡だった。
ガリガリ、と壁を削る鈍い音が聞こえ、だらしなく剥がれる壁の表面。
やがて、中から小さな箱が出てきた。
手のひらにすっぽり収まるくらいの小さな小さな茶色の木箱だった。
そっと手の平に乗せると、僕はそのふたを開けた。

「いやっっ!!」
琴子との別れは突然だった。
当時18歳だった僕は受験という重圧に押しつぶされそうになり、琴子のことをまともに見ることを避けていた。
24歳の彼女は僕との結婚を望んでいた。
そのために付き合っていた彼氏までをも振り(それはとても酷い振りかたで)、僕のことを選んでくれた。
琴子の彼氏は琴子と同じ大学に通う普通の学生で、琴子との結婚を望み、琴子のことを誰よりも一番愛していた。
それは端から見ればただ琴子という甘えられる存在を手放したくないように見えたけれど、あれから10年以上の時が経ってそうではなかったのだと感じるようになった。
つまり僕は子供だった。
僕は3人の中で精神的にも、年齢的にも最も幼かった。
なのに、僕はその琴子を必死に振り向かせようとし、彼との壮絶な修羅場を経験し、琴子を僕と彼の間に挟むかのようにして、傷つけた。
琴子を一番に考えていると言いながら、僕は僕のことしか考えてはおらず、彼もまた彼のことしか考えていなかった。
そして琴子でさえも自分のことを一番に考え、きっとそれは自然の流れだったのだと思う。
人は自分のことを一番に考える動物で間違いもないし、それが正しいことだとも思う。
けれど僕は、少なくとも幸せではない経験をさせた彼女と晴れて付き合うこととなり、彼女の新居であるアパートで半同棲生活をはじめ、一年も経たずしてあっけなく彼女と別れた。
以前の彼との間で少なからず話し合われていたお互いの結婚、将来における現実的な話。
それはその頃の僕にとってみればあまりにも非現実的で、ピンとこなかった。
結婚式は教会がいいだとか、披露宴パーティは慎ましくてもいいから、どこそこでやろうか、とか、僕にとってみればそんなことどうでもいいことだった。
結婚など、まだまだ先の話だと思っていた。
僕は地元の大学を受けようか、東京の大学にしようか、それとも県外ならどこでもいいか、とかそんな歳相応の悩みで精一杯で、彼女からクドクドと報告されるあらゆる情報にうんざりとしてしまっていた。
そしてある日、耐え切れなくなった僕は彼女に言い放った。
「結婚なんて、まだ考えられない」
そう言った瞬間の彼女の顔は忘れもしない。
一瞬でそれまで柔らかかった形相は変わり果て、怪物とでもいうべき醜い表情へと変化していた。
そして涙を流し、顔を両手で覆い、泣き喚く彼女の姿。
時刻は夜中の2時頃だった。
僕らは真夜中に起きてしまい、暖かいコーヒーを飲み、つい数時間前にしたはずのセックスを再び繰り返した。
お互いに力の抜けた体をソファの上で休ませていた時だった。
彼女の何気ない言葉が僕の神経を逆撫でした。
「大学は、地元がいいよ」
当時、県外へと出たいと思っていた僕は(今考えればそれは明らかに彼女のことを考えない、自分勝手な思いではあったのだけれど)、まるで自分の主張をはなから否定されたかのような気になってしまった。
そして僕は言った。
「結婚なんて…」
電気はつけていなかった。
暗い部屋の中で、彼女は泣き喚いていた。
真冬で、寒かったのを覚えている。
ソファの上で、毛布に包まれていた。
外では雨がしとしとと降っていて、外を走る車かなにかの白いライトが窓から差し込んで部屋を数秒照らし出した。
彼女は毛布に顔を覆った。
その隙間から僕は睨まれ、それに怯え、逃げ出したくなって、荷物を持つと玄関へと向かった。
僕を追いかけ、腕を掴み、それを振り払うようにして僕は腕で弧を描いた。
彼女の「痛っ!」という声が聞こえ、暗闇の中で彼女がフローリングに蹲っているのがわかった。
「だ、大丈夫…?」
「痛い…手が…当たった…!」
「あ…あのっ…」
「痛い…っ! あんたの手が、当たった…!」
彼女は喚きだした。
泣いているようには思えなかった。
この世の全てを恨んでやると言わんばかりに大声で僕を罵倒し、一通り終えると再び泣きはじめた。
床に顔を伏せ、小さく漏らした。
「あれはなんだったのよ…あの…婚姻届は…」
それは僕が、お金がないからといって彼女に上げたクリスマスプレゼントだった。
彼女はとても喜んでくれた。
僕は、彼女が喜んでくれればそれだけで嬉しかった。
そして、結婚すらも本気で考えていた。その時までは。

小さな木箱の中には指輪が二つ入っていた。
それは僕と彼女の、それぞれの指輪だった。
この部屋に引越して来た日、僕らが誓いあった約束の指輪だった。
ずっと一緒にいよう。
いつまでも仲良く、共に生きていこう、と。
そして、いつか結婚し、おじいさんおばあさんになった時、この指輪を取りにこの部屋へ再び来よう。
彼女の所在はわからない。
僕は彼女との約束をまた一つ破ってしまった。
指輪を、勝手に取り出してしまった。
指輪を取り出すと、僕は手のひらへと乗せた。
彼女が痛いと言ったほうの手だ。
この手を見るたびに僕は呪った。
あまりにも弱い自分を。
そして、僕を捨てるように振った彼女と、その彼女の新たな彼に。
結局、僕は何も変わっちゃいなかった。
琴子を奪ったのではく、琴子から乗り換えられただけで、僕は琴子の元彼のように、惨めな思いをしただけだった。
だれもが誰かと愛しあって、ただ幸せになりたかっただけだった。
それだけの願いなのに、どうして叶わないのか。
僕には、かおりがいるけれども、それでも答えなんて出なかった。
窓の外を見ると、すでに暗くなっていた。
気がつけば部屋の中も暗かった。
窓を開け、ベランダに出ると、外の空気が冷たく凍てついていた。
確か、琴子とこうやってベランダで夜空に瞬く星を眺めたことがあった。
寒くて震えていたくせに琴子は我慢してここにいると言った。
その夜は、しし座流星群の見える日だった。
寒さで肩を震わす彼女を背後から抱きしめ、彼女の手を上から握った。
吐く息は白くて、お互いに身を寄せ合うようにしていた。
そんな光景を思い出しながら僕は手で弄んでいた指輪を並べて指で掴むと、穴から見える星々を目を凝らして見た。
穴の中に見えたのはか細く瞬く星が点々としているだけで、そこにかつて見た希望やら夢やらなんていう光は存在していなかった。
そこに見えたものは彼女の涙と僕らの幸せだった頃の笑い声が瞬く星のように真冬の夜闇に浮かんでは消えているだけだった。


                                         <了>
陽だまりの中で聞こえてきた声は飼い猫のネムリの泣き声だった。
この声はご飯を欲しがってるときの声だ。いつものことだ。

「にゃ~お」
皿にキャットフードを盛りつけて、私も自分のお昼の準備をはじめた。
今日はアサリとバジルの和風パスタだ。
フライパンの上で茹でたアサリをオリーブオイルと鷹の爪、少量のニンニクで間単に炒めると、タイミングよく茹で上がったパスタをそこに放り込んだ。
パスタを茹でていたお湯には塩を少し混ぜている。フライパンに一玉分のお湯を注ぎ、塩コショウで味をととのえると強火でさっと炒めた。

「いっただーきまーす」
友達のしおりからもらった赤ワインをグラスに注いだ。
窓際ではご飯を食べ終えたらしいネムリが横になっている。
陽だまりの中で気持ちよさそうに目を瞑っていた。
「おいしい?」
と訊くと、
「んにゃぁ~ご」
と欠伸交じりの声を漏らした。

ご飯を食べ終えると、食器の片付けも早々に私はまた陽だまりの中へと舞い戻った。
近所の小さなアンティークショップで買った赤色のレザーのソファがいつもの私の定位置だった。ネムリはその下がいつもの定位置。
ソファでゴロンと横になり、そばにある小さな丸いテーブルには飲みかけのワインと裂けるチーズを置いておいた。
ネムリが私のもとに寄ってきた。ネムリもいつもの定位置で横になると、次の瞬間には鼻をピクピクと動かした。
チーズの匂いにでも気がついたのだろか。
チーズを小さく裂いて、口元にもっていってやった。
初めは舐めるようにして、それから美味しそうにはむはむと食べ始めた。
私もネムリのように舌でチーズを嘗め回した。チーズ独特の香りが鼻をツンと刺激する。
赤ワインとの相性が絶妙な、おつまみの一品だ。
ネムリのように、私もはむはむ、とチーズの味を噛みしめる。
午後2時の陽だまりの中は例外なく眠気が襲ってくる。
ネムリはチーズをすでに食べ終えて、再びお昼寝に入っていた。
私もソファの肘掛に頭を乗せると、チーズとワインもそこそこに眠りの中へと入っていった。

私が大学4年生の頃に付き合っていた彼氏は6こ下の高校生の男の子だった。
彼との出会いは意外なことに覚えていない。
印象的な出会いだというわけではなかったのだが、なぜその頃の私が高校生と付き合うことになったのかがわからないのが、今になって少し歯がゆい。
まあ、知ったところでどうというわけでもないのだが。
とにかく彼のことで一番覚えていることと言えば、彼の性格だ。
高校生にしてはやけに大人びて、いつも難しい本を読んでいた。
彼の愛読書は村上春樹だった。小説をたくさん書いているらしい、ということぐらいしか知らないが、彼の考え方に村上春樹が大きく影響しているというのは時々感じていた。その16歳にしてはやけに擦れた考え方のするところとかだ。
一度だけ、彼から読みやすいから、と言って村上春樹の小説を読まされたことがある。確か、5月の海岸線、とかいう本だった気がする。いや、雑誌だったかな。
とにかくそれを読んで、それだけで直感したのだ。
ただ、彼はその擦れてる感じを一向に受け止めようとしなかった。嫌がっている、というよりかは、村上春樹の本を読んでるから、もろに影響されてる自分にやるせなくて、という印象だった。初めのころ私はそれに気づかず、ことあるごと春樹春樹、と彼のことを茶化していた。だって茶化されるときの彼の表情が、可愛くて仕方がないのだ。
でもある日、彼が本気で怒った。
目に涙を溜めて、村上春樹の文庫を持つ右手に力が加わっているのがわかった。
一瞬、彼の行動を考えた。
私を殴る。この場から立ち去る。泣き喚いて叫ぶ。やはりまだ高校生。まだまだ子供だな、と甘く見ていると、彼は私の予想に反して何も言わずに、「そうかもね」と冷静に言い放った。
面食らった私はもう何も言わなかった。そのことがあった後も、彼のことを春樹を引き合いに出して茶化した覚えもない。彼の大人びた行動の最たるものを見てしまった以上、もう何をしたところで─仮にそれがよくよく考えてみれば些細なことだったとしても─今の私に彼を茶化す資格はないと感じたのだ。

「ねぇ、私はなにがいけなかったのかな」
ネムリにそう問いかけても返事はなかった。
いつものことだ。
部屋の中にそよ風が入って、クリーム色のカーテンを揺らした。
ネムリが寝言のような泣き声を上げた。
季節がそろそろ秋を終えようとしていた。

                                       <了>