昨日、娘の運転で娘の彼氏とわたしとスーとで山に行ったんです。

 

 

スーがこんなふうに外で遊ぶのは、5年ぶり。人がいないからわたしものんびり。

 

 

 

 

 

スーは、川辺では、ザブンと水に入って小魚を追うことに夢中になるし、山道では匂いをかぎながら興奮したり、警戒したり、探索したりとズンズン歩いて…もう、あまりにもうれしそうで、一瞬一瞬がいつもの変わりばえのしない散歩と違って楽しそうな様子で「連れてきてよかったー!!」と思いました。そして、「ごめんよーーー!こんな思いをさせてあげられなくてーー」と思いました。

 

 

 

 

 

そのあと、スーを家に置いて近くの温泉にも行きました。

 

 

ここも5年ぶり。

 

 

広々とした露天に浸かりながら、今日一日、自分が味わった幸せをじんわりかみしめていたら、なんか泣けそうな気がして、泣けるかなと思って、お湯で顔を濡らしたけど涙は出ませんでした。なーんか楽しかったし、スーを喜ばせた達成感もあったし、お風呂は気持ちいいしで、いろいろゆるんでいたんでしょう。

 

 

 

「今日の幸せは、一点の曇りもない幸せだった」

 

 

 

幸せなことが切ないんだなあ。なんともいえず。

 

 

 

この幸せは「夫がいなくなっても幸せ」ではなく、「夫がいなくなったからこそ幸せ」でもなく、「夫がいなくなったという現実の、その延長線上にある幸せ」だと、露天風呂を囲む細くて淡い緑の葉や夕暮れ間近の青い空、タオルで前を隠して源泉風呂へと滑らないように用心深く歩く女の人を見ながら思ったのですよ。

 

 

 

たとえば、娘の彼氏にとって夫の不在は「自然」なのです。わたしがスーの散歩であいさつを交わす人の大半も、それは自然。

 

 

いない、という自然。

 

 

私自身は、夫と暮らしていた頃とほぼ変わらぬ暮らしを続けているつもりが、一日一日、日を重ねるごとに遠くへ歩んでしまい、その延長線上で、さまざまな(夫がいないことが前提ですらない自然の)幸せに出会う。

 

 

ごめん!

 

 

という感じ。

 

 

わたし、ずるい、という感じ。

 

 

昨日は、その後、娘の幼なじみも家にやってきて、疲れていたからスーパーで買った惣菜を並べていっしょに食べました。

 

 

先週書いた、ピザも買ってきました。580円という安さなのにおいしかった。

 

 

ごめん!と思う幸せが増える。

 

 

「でもさ、脇役になることが増えるな。しゃあないか」とかダンナに言いたい。

 

 

 

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