「専業主婦から50代の電話番アルバイトを経て、大ホテルの副支配人になった薄井シンシアさん」の記事は、ツイッターでも話題になり、「すばらしい」という人から「外交官の奥さんだった人を普通の専業主婦と比べないで」という人まで、さまざまな感想が寄せられていました。

 

 

わたしがもっとも印象に残ったのは、一番最後の薄井さんの発言(無料会員登録で最後まで読めます)。記者の「今、幸せですか」という問いへの答えです。

 

 

「学校から帰ってきた娘と、おやつを食べながらおしゃべりする。私の幸せは、あの頃にある。今の私にあるのは、満足です」

 

 

薄井さんは、3年前に離婚。元夫には、新しいパートナーができてほっとしたとも語っています。

 

 

この薄井さんの発言と、わたしの友人が昨日涙を浮かべながら口にした「もう、子どもたちが小さいときには絶対に戻られへんと思うと…」ということばは、表現の仕方も現在の境遇や精神的状態もまったく異なるけれど、『幸せ』の在り処と、それが『過去』のものだという点で重なります。

 

 

わたしも「幸せは?」と問われたら、夫が元気だったころの何げない日常だと即答します。その尺度は、わたし自身の「声に出して笑う回数の多さ」です。わたし自身がよく笑い、夫も、娘も、笑っていた。娘の友だちも笑っていた。テレビを見て笑い、夫のオヤジギャグをバカにして笑い、自分自身のやらかしたヘマで笑う。暮らしのなかにたくさんの「無駄」があり、「邪魔」が入った日々。無駄と邪魔と想定外が、わたしを「自分で決めなくても動いていく毎日」に乗せてくれました。その乗り物こそが、「幸せ」です。

 

 

薄井さんのことばで、わたしも自分が「幸せ」の代わりに手に入れたものがあることに気づきました。今のわたしにあるのは、「充実」です。

 

 

日々の暮らしに加えて、何をすべきか。何をしたいか。たとえば、70歳までに何をしたいか。じっくりと考え、腰を据えて取り組むようになったと感じています。

 

 

夫が植物状態という不幸にあるなか、妻のわたしが「充実」してよいのかと問われたら、「物事には常に二面性があるのだ」と迷わず答えます。そして問います。「あなたにはないと思うか」と。二面性というより重層性といってもいいかもしれません。喪失と解放は、表裏一体なのです。

 

 

「喪失」という大地に力強く踏ん張り、「充実」の明日を見つめる。老いというものの面白さを、そこらへんに探りながら、これからも書いていきたいと思います。