先日とった母が植えてたみかん。
実が付き始めた頃の、
まだ黄色いうちに子供が
喜んで2、3個とってたから
全部で6個か7個だったか。
まだ木が大きいわけでもないから
これだけとれただけでも
嬉しいものである。
なぜなら母が亡くなったあと、
俺が植えた木からはまだ
1個も収穫できてないからw
それにしても、
ただのみかんとはいえ
こうして少しでも実がつくのが
なんとも感動するんだよね…
きっと母はこれ植えたときは
当然ながら何年越しで、
たくさん収穫できることを
夢見ていたんだと思うんだ。
それが叶わないまま、
亡くなってしまった。
無念だったろうな。
無念だったろう、と
想像しかできないのが、
これまたつらくはある。
なぜなら俺自身が、
母がやっていることに
何の興味も持たずに話さえも
ろくに聴いてあげなかったから…
だから、母がいた頃に
「うちでとれたみかんだよ」
と言われても
「ふーん」
みたいな反応しかせず、
みかんなんて、
買ったやつでも同じでしょ、と
ろくに食べもしなかった…
自分が作った野菜や果物…
俺はいま自分で作り、
自分の子供が喜んで
食べてくれるという、
すごく幸せな瞬間を
何度も経験している。
子供が喜んでくれるから、
作るのが楽しいんだもの。
その気持ちを母に
味わわせてあげなかったことは、
どう考えてもクソヤローである。
亡くなってから、
もうずいぶん時間が過ぎ
悲しいみたいな感覚は
薄れてはいるにしても、
こうしてふとした瞬間に
喪失感みたいなものは
時々感じるんだよね。
喪失感、というよりも
母にもっとたくさん
向き合ってあげれば
良かったという後悔に
近いものなのかもしれないが。
それはもう決して、
願っても戻らないものだから
当然ながらそれに
囚われてはいけない、
と理解はしている。
ネガティブなことを
考えたところで何も生み出さず
それが後悔だというのなら
俺自身が野菜作りを通して
せめて子供と触れ合って
いくしかない。
もちろん、子供が嫌がるまでは…
俺の子供だって大人になれば、
パパが作ったものも、
買ったものも同じだろ!って
日はくるのかもしれないし。
俺の子供だからなw
大人になってから、
そして家族を亡くしてから
改めて気づくことが
なんてたくさんあるのだろう。
自分に残されてる時間も、
人間である以上は限られてる。
大切なことは子供たちに
伝えたいと思うと同時に、
それは教わるのではなくて
自分たちで気づいていく
ものなんだ、
それが人間なんだろうなという
実感もある。
大切な人が近くにいるのは
決して当たり前ではなく
近くにいられる時間を
大切にしなければいけない。
母が植えていた花々が
咲き始めたり、
こうして野菜や果物が
実をつけるたびに
教えられている気がする。
と、まぁそんなことを
みかんを見て思う日々であった。