【稲生の戦い】弘治2(1556)年8月(23歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

<稲生の戦い図>画:筆者

 

 5月末に那古野城の林兄弟が信長の弟の信勝を擁立して信長に反旗を翻したことで(【林秀貞の信長暗殺未遂】参照)、信長と信勝の武力衝突は決定的となり、8月22日、信長は於多井(おたい)対岸の名塚に砦を築いて佐久間(大学)盛重を入れて那古野城に備えた。

 

 これに対し、23日には柴田勝家が兵1,000、林美作守が700を率いて名塚に迫った。23日の大雨で於多井川は増水していた。そのため、柴田・林の軍は渡河を躊躇していた。しかし翌24日、信長は清須より兵700を繰り出し、躊躇することなく於多井川の渡河を強行した。ここで先陣の足軽の取り合いとなった。

 

<織田信勝>画:筆者


稲生(いのう)の村外れの街道から柴田勝家が、そして南から林美作守が北進してくると、信長は稲生の村外れから少し退いて東の藪ぎわに陣を構えた。
 

 戦いは正午ころに始まり、まず南東に向かって信長勢が柴田勝家の陣に攻めかかった。叩き合いの末に佐々成政の義兄弟の山田治部左衛門が柴田に首を取られたものの、柴田も手傷を負って引いた。信長勢は佐々孫介ら屈強の者どもが討たれ、信長の前へ逃げてきた。

 

<柴田勝家>画:筆者


 このとき、信長の周りには織田勝左衛門・織田造酒丞(みきのじょう)信房・森三左衛門をはじめ、槍持ちの中間(ちゅうげん)衆が40人ほどしかいなかった。この体たらくを見て信長は大音声を上げて全軍を鼓舞した。もともとは身内の敵方はその形相に恐れをなしてひるんだ。味方の軍勢も、織田信房と森可成が一緒に討ち取った「土田の大原」と言う武将の首を取り合っていたが、信長の怒声を聞いて我に返り、首は打ち捨てて敵勢に打ちかかった。

 

 勢いを得た信長勢は柴田勢を押し返し、今度は南に向かって林美作守の軍に攻めかかった。この戦いで黒田半平と林美作守とは数刻にわたって斬り合い、黒田半平は左手を打ち落とされた。互いに息をついているところへ信長自らが飛び掛かった。織田勝左衛門の家人・口中杉若(ぐちゅうすぎわか)の助けで信長は美作守を突き伏せ、ついに首を挙げた。

 

<林美作守>画:筆者


 これを見て柴田・林の両軍は一挙に崩れ去り、信長は角田新五らを始めとした敵の首450余りを討ち取る勝利を得た。信長は進んで那古野・末森両城の城下に放火して清須へ帰陣した。


 信長・信勝兄弟の生母土田御前は、信秀死後も末森城にあったが、清須より村井貞勝と島田秀満の両人を呼び、反旗を翻した信勝の罪を信長に詫び、赦免されることを求めた。信長は生母の嘆願を聞き入れて信勝の罪を赦すことにした。土田御前が同道の上で、信勝・柴田勝家・津々木蔵人が黒染めの衣で清須に来て御礼を言った。林(佐渡守)秀貞は清須へ謝罪に来なかったが、信長はこれも赦し、元のごとく那古野城代を任せた。

 

林秀貞>画:筆者


 この戦いで信長に味方して名塚砦を守備した佐久間(大学)盛重は五器所城主で、信勝付きの家老という立場であったが、織田家臣の多くが信勝方に走る中、同族の佐久間信盛らとともに信長方に味方した。佐久間一族は山崎(名古屋市南区)、御器所(名古屋市昭和区)、名塚(名古屋市西区)と尾張のほうぼうに散っている有力な一族であったが、この頃は一族全体が信勝から離れていたようである。

 

<佐久間大学>画:筆者


 佐久間(大学)盛重は名塚砦を堅持し、信勝方の橋本十蔵を討ち取っている。永禄3(1560)年の桶狭間の戦いでは丸根砦を守備し、松平元康(後の徳川家康)勢の攻撃により戦死することになる。