【庶長兄信広の造反未遂】弘治2(1556)年(23歳) | しのび草には何をしよぞ

しのび草には何をしよぞ

信長の生涯を綴っていきます。

清須城模擬天守:筆者撮影

 

 弘治2(1556)年、信長の庶長兄である信広(【三河安祥城の陥落】参照)は、美濃稲葉山城の斎藤義龍と組んで謀反を画策した。この頃、信長は美濃からの兵が来れば自ら清須より出陣し、後詰めに信広が清須城に入り、居留守役の佐脇藤右衛門が信広の応対に出てくるのが常となっていた。信広はこれを利用して、清須城の北に義龍が布陣して撃退するべく信長が出陣した時にいつも通り後詰めとして清須入りし、応対に出てくるであろう佐脇を殺害して清須城を乗っ取り、成功すれば狼煙を上げて清須城の信広と義龍とで信長を挟撃するという作戦を立てた。


 しかしこの計画は事前に信長に漏れ、清須城から義龍を迎え撃つために出撃した際に佐脇に決して城を出ないことと、町人に惣構えで城戸を閉ざし、信長帰陣までいかなる人間も入れぬようにと厳命していた。この時に限って佐脇に入城を頑なに拒まれた上に警戒体制の城下の様子を見て、信広は謀叛の失敗を悟り慌てて兵を返し、いつまでも狼煙が上がらぬことで、義龍も信広が清須城の乗っ取りに失敗したことを察し、戦わず美濃へと引き上げた。この時、信長は信広を赦免している。


 信広のその後について触れておこう。信長に降って以後は、二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼かったこともあり、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家連枝(れんし)衆の中ではまとめ役的な存在であったという。織田家が上洛を果たした永禄12(1569)年から元亀元(1570)年頃まで京都に常駐して、信長の庶兄という立場から室町幕府、公家との折衝役を任され、山科言継吉田兼見一条内基らと交友を持った。


 元亀元(1570)年の比叡山焼き討ち元亀3(1572)年の岩村城救援などにも参戦した。天正元(1573)年4月7日には、織田家と不和になっていた足利義昭と信長の名代として交渉に臨み、和議を締結させている。


 天正2(1574)年、最後の伊勢長島一向一揆攻めに参加する。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、9月29日長島願証寺が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた願証寺顕忍三位法橋は弾丸に倒れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に大木兼能(佐々宗淳の外祖父)と一騎討ちとなり、信広は討ち死にしたという。

 

【三河福谷城の戦い】弘治2(1556)年(23歳)
 弘治2(1556)年、信長の将である柴田勝家荒川頼季が、松平元信(後の徳川家康)の将である酒井忠次大久保忠勝らの籠る三河福谷城を攻撃したが、敗れ去った。