【津島で踊りを興行】弘治2(1556)年7月(23歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

弘治21556)年718日、「信長公記」によれば、信長は尾張国津島で踊りを興行し、堀田道空邸で自ら天女に扮して小鼓を打ちながら女踊りを舞って、清須へ帰った。

 

これには政治的な意図があったものと思われる。当時の718日は、現在の822日で、つまりお盆の時期にあたる。信長が踊りを舞った場所は堀田道空の屋敷であるが、堀田道空は天文221553)年の信長と道三の聖徳寺の会見で、道三の家臣として参加し、信長に座敷で先に待つよう促した人物である【聖徳寺の会見】参照

 

堀田道空は木曽三川で尾張と美濃を結ぶ舟運業を背景にした財力とネットワークで道三の家老にまでなった尾張津島の有力者である。「美濃国諸家系譜」によると道空(正兼)の父は堀田正道といって、もともと津島に住んでいたが、明応91500)年に信長の祖父・織田信定らが津島に侵攻したためこれと戦って敗れ、美濃へ落ち延びたという。津島は四家七党と呼ばれる土豪・名主たちが治めており、「四家」は大橋・岡本・恒川・山川の4氏で、「七党」は堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村の7氏を指し、両者あわせて四家七党と呼んだ。堀田氏はこの七党の一つなのである。正道はその後も何度か津島奪還を目指して四家七党と共に織田家に挑んだが遂に大永41524)年に信定に敗れて討ち取られてしまったという。

 

しかしその後に斎藤・織田の同盟が成立して以降、堀田家は再び津島で舟運業を開始したと思われる。堀田一族からは津島神社の神官も出ていたというから、その末社で那古野城内にあった亀尾天王社に通い学問をした信長にもゆかり深い。なお、幕末に老中として諸外国の交渉に奔走した堀田正睦は、この家系である。

 

道空は「美濃国諸家系譜」によると弘治元(1555)年つまり長良川の戦い【長良川の戦い】参照の前年に死没しており、道空の弟の十郎兵衛と長男の市助は長良川の戦いの際に道三に味方して明智城に籠城し、斎藤義龍の攻撃を受けて討死している。次男の正種は堀田家が義龍に反抗したことから所領を没収され蟄居となっている。

 

つまりこの津島踊りの時には道空は死没しており、「信長公記」のいう堀田道空邸というのは道空が生前に住んでいた邸宅の跡地という意味であろう。木曽三川の舟運業で栄えた堀田家としては美濃と尾張が同盟関係である方が商売がしやすいために道三に味方したのであろうが、このために長良川の戦いで武士としての堀田一族はほぼ壊滅してしまったわけである。それでも堀田家は依然として津島の有力者であったから、津島を経済基盤としていた信長としては踊りを堀田家で開催し、津島衆の心を引き付けるよう気を遣ったものと思われる。

 

この信長の女踊り以後、津島では「津島踊り」が大流行し、貴賤上下を問わず皆が踊り楽しんだという。信長が躍る以前からこの地では「古雅な戯れ」として限定的に津島踊りが開催されていたのであるが、信長が躍ったことで流行したのであろう。

 

信長は家臣4人を「鬼と地蔵」組とし、別の4人を「武蔵坊弁慶」組にして躍らせた。これは津島踊りの中の「くつわ踊り」というものであるが、くつわ踊りは雨乞いの踊りといわれている。つまり、信長の女舞いは堀田屋敷の雨乞い儀式である津島踊りの一部だったのである。しかも信長が演じた弁才天女は、水の神として祀られていることから、信長自身も雨乞いを強く意識していたと思われる。

 

実は、このとき全国的に日照りが続いていた。『足利季世記』、『重編応仁記』によれば、この時期に炎天下の日が続き、日照りで作物が育たず大飢饉が発生したことが記されている。尾張の人々は雨を渇望し、天を仰いでいた時期だったのである。

 

そうした中で津島の雨乞い踊りに信長が参加したことは、単にお祭りに信長が気さくに参加したという表面的な意味合いだけではなく、領民のためを思い、領主自らが雨乞いの儀式を行うという意味合いがあったのであるこのあと津島の5ヶ村の長老たちは清須へおもむき、信長の御前でお礼の踊りを披露した。長老たちは信長から一人一人言葉をかけられ、団扇であおいでもらったり茶を出されたりして感激し「炎天の辛労を忘れ」たという。

 

なお、『日本歴史地名体系』によれば、「津島五ヶ村の呼称は天文九年(一五四〇)一二月の織田信秀書状(三輪武邦氏蔵)の宛名「津嶋五ケ村中」までさかのぼれる。津島五ヶ村とは米之座・堤下(とうげ)・筏場・今市場・下(しも)で近世津島村の根幹の町である。これから多くの町が生れた」という。