【信秀の死】天文21(1552)年3月(19歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

<信長の家督相続予想図>画:筆者

 

 天文21(1552)年3月3日、父の備後守信秀の病状が悪化し、居城の末森城にて41歳で没した。法名は万松寺殿桃岩道見大禅定門という。

富と実力を兼ね備えた信秀の葬儀は盛大なものであった。回向の僧衆だけでも300人を数え、一族の者や家来たちが威儀を正して参列した。葬儀の席上、かしこまって並ぶ家臣や、折り目正しい服装をした弟たちの前で、信長は仏前に抹香を投げつける奇行を見せた。

 

 この頃の信長は心身の鍛錬に余念がなく、その半面では傍若無人の振る舞いが多かったという。信秀の死によって「うつけ」の信長が家督を相続したため、当時の家臣たちは皆、織田弾正忠家の将来に不安を覚えたことと思う。

 

 このとき、筑紫の客僧のひとりだけは、「あれこそ国を持つ人よ」と信長を評したという。

 

 この葬儀の場所は万松寺である。万松寺は信秀が自ら菩提寺として開いた寺で天文9 (1540)年に建立された。現在は大須商店街の中(中区大須3-29-12)にあるが、ここへは慶長17(1612)年の清洲越しに伴って中区丸の内二丁目あたりから移転した。それ以前、信長の時代の万松寺は那古野城の南側にあり、外堀通りのあたりから桜通りの南あたりまでの広大な境内であった。その境内の南端にあったのが現在も桜通沿いにある桜天神社(中区錦2-4-6)であるから、当時の万松寺の広さがわかる。なお、万松寺には人質時代の幼い徳川家康が6歳の時から約2年間預けられていたという逸話も残っている。

 

<万松寺の周辺図>GoogleMapより

 

 織田弾正忠家の家督は信長が嗣いだが、信秀の居城だった末森城には同母弟の勘十郎信勝が入城した。信秀の所領は尾張国内の海西・海東・愛智・春日井郡南部(山田郡という)のほか、中島郡などにも散在していたと見られるが、そのうち少なくとも熱田の東加藤家分や愛智郡東部および海東郡桂村付近などが信勝に相続されたようである。

 

 従って信長に相続された所領は海西郡・海東郡西部・愛智郡西部・春日井郡南部あたりということになるが、海東郡の戸田周辺には、守護斯波氏の分家である石橋氏がおり、信長・信勝が海東郡を一円支配できたわけではない。また、海西郡でも長島や二之江(弥富)に服部党などの一向宗門徒が強大な勢力を持っていたから、19歳の信長にとっては前途多難な船出だったと言える。