【山口教継の造反】天文21(1552)年3月(19歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

<山口教継>画:筆者

 

 信秀の死に反応して、尾張国内ではすぐに動きがあった。鳴海城の山口(左馬助)教継・(九郎二郎)教吉父子が離反して駿河の今川義元に寝返り、周辺の諸城を攻め落としてしまったのである。山口教継は笠寺一帯に勢力を持つ豪族で、小豆坂の戦いでも活躍した人物である。織田家にあって今川家との交渉を担当していたようで、今川の強大さを知っていたがゆえに、信秀没後の織田家の将来を見限ったものと思われる。

 

<桜中村城の周辺図>GoogleMapより

 

 山口教継は鳴海城にいたが、鳴海城は子の教吉に守らせ、大高城の水野忠氏と沓掛城の近藤景春を調略して城を今川に引き渡させ、笠寺砦を修築して今川方の葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏を引き入れると、自らは桜中村城に立てこもった。桜中村城は名鉄桜駅の東400メートルにある桜公園のあたりにある。

 

<桜中村城>現在の桜公園周辺が城跡と考えられている。