【横山の戦い】天文20(1551)年(18歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

<丹羽氏識>画:筆者

 

 信長は天文20(1551)年に尾張岩崎城主・丹羽(うじ)(さと)と尾張愛智郡横山で戦ったが敗れ、那古野城へ帰城した。これは氏識と対立する氏識の従兄弟の尾張藤島城主・丹羽氏秀からの援軍要請に応じた出陣だったらしい。この戦いで勝った氏識は、藤島城も領することとなった。

 

 岩崎丹羽家の祖は一色丹羽氏である。つまり室町幕府の四職として重用された一色氏の末裔である。丹羽氏識の子の丹羽氏勝はのちに尾張守山城主織田信次の家臣になる。信次の家臣洲賀才蔵が織田信長の弟である秀孝を誤殺し、信次が信長を恐れて守山より逃亡した際には、氏勝ら家臣団が守山城に立て篭もり織田信勝の軍勢に抗戦した。

 

 その後、岩崎が尾張・三河国双方の要害の地であったため、織田信長・徳川家康の双方から臣下としての誘いを受けるが、信長が横山の戦いで氏秀に援軍を送っていたため信長の誘いを断って家康につき、三河国の乙尾・一色・赤羽根の三ヶ所を与えられた。信長と家康が和睦して清須同盟を結んだ後は信長の臣下となり、三河国の所領はそのまま安堵されたが、天正8(1580)年に氏勝は突如信長によって追放されてしまった。

 

 氏勝の子の氏重は、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いにおいて、家康方として参戦し、秀吉による岡崎急襲作戦である「三河中入」の部隊を岩崎城で阻止し、徳川方の勝利に貢献した。

 

横山の戦い周辺図(GoogleMapより)