【知多郡の戦い】天文19(1550)年 8月(17歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

 天文19(1550)年 8月、今川勢が知多郡に攻め寄せた。さらに現在の瀬戸市あたりにも進出した。信秀が病床のため、今川義元は好機とばかりに尾張への攻勢を強めたようである。

 

<織田信秀>画:筆者

 

 このような情勢の中、病床の信秀は今川義元との和睦交渉を進めており、天文19(1550)年 12月に太原雪斎に勅書が出された。積極的に尾張を侵食していた太原雪斎も態度を一変し、これ以後は義元の出馬を阻止するようになる。この頃、雪斎は美濃岩村の大円寺(明叔)あてに手紙を書いており、義元がこれ以上野心を抱いて領土拡張することをやめるべきだと書いている。