【那古野城を略取】天文7(1538)年(5歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

<那古野城跡>

 

 天文7(1538)年、父の信秀は尾張の那古野城まで食い込んでいた那古野今川家を那古野城から駆逐した。那古野今川家の当主は駿河の今川義元の弟にあたる氏豊である。

 那古野城は現在の名古屋城二の丸庭園あたりにあったと言われている。ここは熱田台地の北の端にあたり、今でも北側の地形は急に低くなっているが、当時、城の北側は湿地帯であった。ちなみに熱田台地の南端には熱田神宮がある。熱田台地は岩盤が固く、JR東海道線・中央線を引き込む際、台地に沿うように線路を敷いたほどである。

 今川氏豊と信秀とは連歌仲間で、天文2(1533)年7月に信秀が和歌と蹴鞠の指導のため、京都から公家の山科(やましな)(とき)(つぐ)()鳥井(すかい)(まさ)(つな)を居城の勝幡城に招いた際、12歳になる今川竹王丸(氏豊)も勝幡城に来て、蹴鞠の門弟になっている。このように信秀は氏豊と友好関係にあったため、那古野城にしばしば滞在していたが、あるとき「柳の丸」に滞在していた信秀が大病と偽って城内に麾下の家臣を呼び込み、夜半になって城に火をかけて攻め落とした。このとき、南西隣の(かめ)(のお)天王社と若宮八幡社も兵火に巻き込まれて焼亡したが、天文8(1539)年に再建された。

 

<那古野城周辺>GoogleMapより

 

 亀尾天王社は津島牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)を総本社とする天王社のひとつで、現在、水資源機構(独立行政法人)中部支社がある辺りにあった。創建時より若宮八幡社と隣接していたが、慶長15(1610)年の名古屋城築城の際に、当神社のみ三の丸の郭内に取り込まれ、若宮八幡社は城外に遷座した。

 亀尾天王社のみ遷座しなかったのは、徳川家康がおみくじで神意を伺った際に「遷座不可」と出たからである。明治時代に名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である名古屋市中区丸の内の現在地に遷座し、明治32(1899)年に那古野神社と改称し、現在に至る。

若宮八幡社は名古屋の総鎮守で、名古屋城築城の際に矢場町にある現在地に遷座した。若宮大通は、この若宮八幡社から名づけられている。

 信秀は、天文7(1538)年10月から乗っ取った那古野城の拡張整備と、菩提寺となる万松寺の創建を開始した。この時、尾張領内に「夫丸」、すなわち築城人夫役が課せられたのだが、守護代織田達勝が性海寺に諸役免除の文書を発した文書が残っていることから、信秀による那古野城奪取と改修が、守護斯波義統の公認のもとに行われていたことが分かる。

 ここで注目すべきは、信秀による那古野城略取まで、この地域は今川氏が治めていたという事実である。後の桶狭間の戦いにおける今川義元の侵略目的は、旧領の回復だったのかもしれない。

 天文7(1538)年11月2日、祖父の織田信定が没した。また、この年に前田利家が生まれている。