【三河安祥城攻略】天文9(1540)年 6月(7歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

 天文9(1540)年2月9日、三河の松平広忠が尾張に侵入して、鳴海付近を攻めた。

 5月11日、信秀のもとに伊勢神宮外宮の禰宜である度会備彦(わたらいそえひこ)から遷宮に係る費用の提供を依頼する手紙が届いた。信秀はこれを承諾し、そのお礼として備彦から贈品を送られた。信秀は6月6日に贈品に対する礼として備彦に金子13枚を送った。

 同日、信秀は大挙して三河に侵入し、安祥(あんしょう)城を包囲した。2月の三河衆による鳴海襲撃に対する報復である。安城(左馬助)長家が守将となっていたが、広忠は弟の源次郎信康や、藤井松平の利長、矢田松平の康忠らを援軍として派遣していた。

 城兵は門を開いて戦ったが、長家、信康、康忠ら50余人が討ち死にして城は陥落した。この後、安祥城は天文18(1549)年まで織田氏の三河侵攻の拠点となる。

 

<安祥城>

 

<GoogleMapより>

 

 天文10(1541)年3月6日、父の信秀は、前年に約束した伊勢神宮外宮仮殿遷宮の費用として、まず金子5枚を送った。その後は費用が掛かるたびに出費したようで、最終的には総計700貫文になったという。

 9月26日、外宮の仮殿遷宮が執り行われた。その後、信秀はこの功績によって、朝廷から三河守に任じられたというが、信秀が三河守を称した証は見られない。