アルビノ白くまのぽかぽか日和ヾ(=^▽^=)ノ -162ページ目

アルビノ白くまのぽかぽか日和ヾ(=^▽^=)ノ

アルビノという個性と共に暮らしています。

日々感じた事、思った事を綴っています♪

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昨日は長崎平和公園で行われた『被爆65周年長崎原爆犠牲者慰霊祈念式典』の会場に式典が終わってから、訪れ65年前に原爆の被害にあわれ亡くなられた多くの方々の慰霊と戦後65年経ったいまでも原爆症に苦しんでいらっしゃる方々、ご遺族のみなさまの心の平安と世界平和を祈らせていただきました。

実は40数年前に、同じ場所を母も訪ねています。

中学を卒業後に尾張一宮にあった紡績工場で昼は働き夜は学校に通う生活を6年していました。

その当時は全国から多くの若い女性が出稼ぎに来ていたそうで母もその時に知り合った全国のお友達がいます。
その中でも特に仲がよかった数名の中に鹿児島の方(いまは親戚のおばちゃんです)がいてお休みの時に夜行鈍行列車で昔では珍しく時刻表を持って女性の一人旅をしていました。

今で言うところの『鉄子さん』かもしれませんね。

その鹿児島の帰りに長崎にも立ち寄っていました。

まだ私が小さい時にはよく母から旅のお話を聞いて、まだ見ぬ地「長崎」や「鹿児島」に思いを馳せたものです。

そして、母が訪ねてから40数年が経ち今度は私が母が旅した長崎へ来ています。

母の時代には夜行鈍行列車で20時間以上かけていたものが、いまでは九州新幹線が走り短時間で移動する様には変わりましたが、訪ねていた場所は変わらず昔の面影が残っているところも多いと思います。

今回の旅は、若き日の母の面影をたどり母が歩いた同じ道を歩いている気がします。

まだ結婚前の母は、いったい何を考え何を思って鹿児島や長崎の一人旅をしていたのでしょう。

そんな事を思いながら、長崎の街を歩いていました。

きっと母の訪ねた時はまだまだ戦後もまない時ですから今以上に心から被爆者の方々を思って祈られていつのでしょう。

こうして40数年経って、母の子供として産まれた私が母が祈った同じ場所に立ち祈らせていただけることを感謝の気持ちで祈らせていただきました。

平和公園をあとにした私はこれも本当に偶然なのですが、母が旅の途中で訪ねた諫早へ向かいました。

ここでは、数年前にネットで出会った総理さんご家族にお会いさせていただくために向かいました。

総理さんのお子さんは3人姉妹で、3女さんが私と同じアルビノとして産まれてきました。

諫早へ向かう車窓から外を眺め「きっとこの景色もひとり見ていたんだろうな~」と思っているうちに諫早へ着きました。

駅では、総理さんが改札で出迎えをしていて下さって、すぐにお友達の運転する車に乗ってご自宅へ向かいました。

総理さんもお友達も、とても気さくでネットで知っていたとはいえ初めて出会ったとは思えないほど車の中で話が盛り上がりました。

ご自宅からは何度も娘さんから電話がきて「娘たちも緊張しているんですよ♪」総理さんがおっしゃっていました。

そして30分くらい走ってご自宅に到着しました。

ご自宅では、私が来ると言う事で、ご家族みなさんと娘さんが通う幼稚園の先生も来て下さいました。

お母様と総理さんと旦那さま、3姉妹さんと旦那さまの妹さん、お友達と幼稚園の先生、そして私の10名が集まって、長崎の郷土料理の皿うどんや多くの料理を囲んで、楽しい時間を過ごしました。

ここで知ったのが『皿うどんにはソースをかける』ということです。

全て手作りの郷土料理を美味しくいただいて本当に心からのご馳走に感謝の気持ちでお腹も心もいっぱいになりました。

今回はアルビノ当事者としてのお話をさせていただくために来たのが目的ですので最初は娘さんが私とタイプがほぼ同じだと分かりましたので私のアルビノ当事者としての経験と全国で出会わせていただいたアルビノ当事者さんやご家族さんから聞かせていただいたお話をもとにアルビノについてのお話を娘さんたちが楽しく遊んでいる中をお話させていただきました。

総理さんも旦那さまも、とても子煩悩で私にいろんな日常での注意することや幼稚園での生活について、いろいろと聞いて下さいました。

幼稚園の先生も、総理さんの現在3女さんを受け持っていますが3姉妹全員受け持った経験がありますので、本当のご家族を心配する様に幼稚園での生活について聞いて下さいました。

お母様も旦那さまの妹さんもお友達さんも3姉妹全員可愛くて可愛くてしかたない様で、とても可愛がっていらっしゃいました。

娘さんは私とは、男女は逆ですが長女さん次女さんは普通に産まれ3女さんがアルビノとして産まれていますが、3姉妹で仲良く遊んでいる姿を見て本当に安心しました。

これから、きっといろんな事がありますが、きっと総理さんご家族ならは乗り切って下さると思いました。

そして、総理さんが長崎まで旦那さまの運転で送って下さる時に「白くまさんの様に産んでくれた事を感謝できる子に育てるにはどうすればいいですか?白くまさんのお母さんの様に私もこの子を育てたいです」と言って下さいました。

私もまだ独身で、子育てもした経験はありませんから偉そうな事は言えませんが「子供たちの事を信じてあげて下さい」と母が私にして下さった事を言わせていただきました。

母も朝から晩まで働き、家に帰れば9人家族でしたから、炊事に洗濯に子育てに必死だったと思います。

私たち兄弟は、その姿を見て育ちました。

それを見て育った私たちは、いま大人になり働いて生きています。

親がそうしたように、いま親と同じに私たちもしています。

そうやって、次の世代、そしてまた次の世代へと続いて行くのでしょうね。

私が親になって、子供を育てる様になったら、私はアルビノ当事者としての前にひとりの人間として、そして親として子供たちと向かい合い、両親の様にはいかないとは思いますが、精一杯に生き、一生懸命に働く姿を見て育っていってほしいと願っています。

立派な事は何もしてあげられませんが、生かされている事に感謝し、生きられる子供たちなってほしいと願っています。

そして、何十年か経っていまの私くらい歳となり、私が祈ったこの長崎を訪れ、平和の祈りをして、私がここで思ったこと感じたことを、私がいま母に感謝できるように、産んで下さったお母さんに感謝できる様になって下さっていたらいいな♪そう思いました。

今回の旅もまた、生きている事に、多くの命に支えられている事に気がつき、アルビノ当事者としての前にひとりの人間として、感謝して生きることの大切さを学ばせていただきました。

この世界が平和でありますように。

世界中の誰もが平等で、人としての尊厳のある生き方ができる社会でありますように。

心より祈らせていただきます。
おかげさまで、多くのご縁をいただき全国47都道府県ご訪問を達成いたしましたヾ(=^▽^=)ノ

記念すべき最後をの県は長崎県でした(*^_^*)

これも、ご縁なのでしょう、今日は長崎原爆慰霊の日です。

全国の戦蹟を祈らせていただく事も活動と一緒にさせていただいておりましたので、最後が偶然にも長崎になった事も、きっと意味があると思っていますm(__)m

また、これからもご縁をいただいたところへ全国どこにでも、日本を離れ世界にもご訪問させていただけたらと思っています。

47都道府県全て訪問させていただいたと言っても、まだまだ日本のほんの一部です(;^_^A

これから、どんな素晴らしい感謝に満ちたご縁をいただけるのか、とても楽しみですo(^-^)o

まだ、お会いしていない全国の多くのみなさん、いまからお会いさせていただける事を嬉しく思いますm(__)m

いままで、全国で出会わせていただいた多くのみなさま本当にお世話になりましたm(__)m

この場を、お借りして、心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。
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長い日記なのでミクシィ日記やアメーバなどで御覧下さい。

昨日の日記です。

今日は長年、切望しておりました知覧へ伺いました。

終点のバス停「特攻観音堂前」で下車し、マイミクさんで「特攻の母」と言われた鳥浜トメさんの次女のお子さんでもある、赤羽潤さんのご紹介でトメさんが最後に営んでいた「知覧茶屋」からご訪問させていただきました。

早速、ご紹介いただいた知覧茶屋に着いてトメさんの長女のお子さんの鳥浜明久さんがいらっしゃるか、従業員の方にお聞きして初対面させていただきました。

知覧茶屋で「知覧茶そば」をいただき知覧特攻平和会館に行こうとしましたら明久さんが「石井さんに本当の特効隊員の真実の姿をお伝えしたいので平和会館に行く前にホタル館富屋食堂から先に私がご案内させていただきます」と言っていただいて、明久さんの運転でホタル館富屋食堂へ行きました。

著書「ホタル帰る」舞台になった、富屋食堂があった場所に新しく資料館として、鳥浜トメさんの次女の礼子さんと孫の久明さんが建てた特攻隊のみなさんの真実をご紹介し遺品を展示する個人資料館です。

国や行政からの寄付も一切なく、純粋に入場料350円だけで運営している特攻隊のみなさんの基地では見せなかった本当の姿を知る事ができる資料館です。

最初は明久さんがご説明をして下さり「石井さんゆっくり見ていて下さい1時間後にまた迎えに来ます」と言って外へ出て行かれました。
その後はひとりで隊員のみなさんの写真や遺書や遺品などを見ながらいろんな思いがこみあげてきました。

1時間ほど拝見していますと久明さんが用事を済ませて私を待っていて下さり「石井さん、これから実際に特攻隊のみなさんが出撃した飛行場の跡をご案内します」と言って下さいました。

そして車を走らせて、元司令部があり「別れの杯」をした場所に着きそこにある石碑の前でご説明をしていただきました。

更に移動して「ここが写真で、女学生が桜を振って見送っていた場所です」と聞き、あの写真と今の野原を見ながら心は当時にタイムスリップしたようでした、知らないうちに頬に涙が伝いなんとも悲しい気持ちになりました。

その間も久明さんは、特効隊員のみなさんが出撃されていった当時の様子をお話して下さいました。

「石井さんここの飛行場跡が一望できる、あの小高い丘の上までご案内しますよ」と目の前に見える小高い丘に向かいました、丘に到着すると強く気持ちのよい風が吹いていて、きっと戦闘機で飛び立った時にも、この風を感じたであろうと思いました。

丘の一番高いところから眼下に広がる知覧の街と遠く開聞岳を望み「この景色を特効隊員のみなさんは見ながら沖縄の空へ二度と帰れない出撃に出られたんだ」と思っていました。

久明さんが「あの開聞岳が特効隊員の方々が見た最後の日本の風景なんです」とご説明くださいました。

この景色を見ているだけで、私の涙はどんどんあふれ、手を合わせ、ただただ「ありがとうございました」としか言えませんでした。

決して、戦争を美化するつもりはありませんが特効隊員の方々が、ご自分の家族も愛する人もご自分の夢までも投げ出して、私たちの日本を、愛する人たちを守るために死んでいきました。

今日、私たちがこうして平和の中で生かされているのは、若く死んでいった多くの方々の「私たちが死んだあと、生き残った人たちにこの日本を平和な国にしてほしい」その思いがあればこそです。

久明さんは、トメさんと30年以上共に暮らしトメさんから多くの方々の真実を語り聞かされて育ちました、その思いを受け継ぎ、特効隊員の方々の本当の姿を現代の私たちに伝えるお役目を神様から与えられ、いまも多くの方々に伝える活動をされています。

久明さんから「石井さん、あなたはその体で生まれてきて、いままでいろんな事があったでしょう、でも特攻隊のみなさんは自分が死ぬのを知って出撃していきました、いま石井さんは生きています、だからこそ例えどんなことがあっても生きて、その活動をこれからも絶対に続けていって下さい、私も祖母の残した真実の思いを伝える活動を続けていきますから、お互いにこの日本をよくするために頑張りましょう」と言って下さいました。

そして、丘から開聞岳を見ながら明久さんが「こんなに綺麗な開聞岳を見る事ができるのは年に20日くらいあるかないかです、石井さんを今日ここにご案内して本当によかった」とおっしゃって下さいました。

丘を下って知覧特攻平和会館まで車で送っていただいて最後に両手でかたく握手をして「また、お会いしましょう、お互いに、この日本のこれからのために頑張りましょう」と約束をして別れました。

その後、トメさんが最初は落ちていた棒1本を立てただけの特効隊員の慰霊碑だったものが、トメさんの懇願でいまは特攻観音堂になりました、私は堂内で床に頭をつけ土下座して祈らせていただきました。

そして「この日本をよくするために散っていった多くの隊員の思いを受け継ぎ、私も自分の活動で何か、この日本がよい方に向かうため活動をさせていただきます」と祈らせていただきましたm(__)m

今朝、家を出てすぐに『虹』を見ました。

そして、全てを見終わって特攻観音堂前バス停に着くと並んでいた方々が「あ!綺麗な虹がかかっている」と、みなさんが嬉しそうに指をさしています。

私もそちらを向きますと、うっすらですが『虹』が特攻観音堂の上空にかかっていました。

私は心のなかで「きっと、特効隊員のみなさんに気持ちが通じたんだ♪」と思わずにはいられませんでした。

世代を超え、時代を超え、私たちの「この日本をよくしたい」という思いが虹よって繋がった気がしました。

ありがとうございます。


明日、9日は長崎の原爆慰霊の日です。

電車の関係で原爆投下の時間には間に合いませんが、車内より祈らせていただきます。
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今日は私のHNの由来にもなっている「白くまアイス」の聖地、鹿児島市内にあります『天文館むじゃき』へ行ってきました~(≧▼≦)

正式には「氷しろくま」と言う様ですが、その種類の多さと量の多さにはビックリしましたw(°O°)w

店内にいますと、ほとんどのお客さんが「白くま~♪」って注文をしていますので、なんだか呼ばれているみたいで、キョロキョロしちゃいました(;^_^A

氷も粉雪の様に柔らかくて、口に入れるとすぐに溶けて、あんなに量があったのに全ていただいちゃいました(≧▼≦)

フルーツも沢山入って、ゼリーもたっぷりで美味しかったですヽ(´▽`)/

あの量をひとりでいただいたので、私だけが大食いなのかと思ったら、結構みなさんひとりで全ていただいている方がいましたので安心しました(*^_^*)

これで白くまと胸を張って名乗れます(^^)v

天文館からの帰りは鹿児島中央駅まで市電に乗って帰りました(^O^)/

路面電車は函館以来だったので、懐かしく思い出しちゃいました(^-^)

明日は長崎の路面電車に乗りますので楽しみですo(^-^)o
特攻隊 なでしこ隊
http://www.youtube.com/watch?v=mYPfoiQWL34&feature=related

CMも入り、ちょっと長く音も少し悪いですが、お時間がありましたら見ていただけたらと思いますm(__)m

私は明日、ここへ行きますm(__)m



私は小さい時から祖父に戦争の話を聞いて育ちました。

祖父の弟、石井静さんは佐倉第57連隊に配属され満州で正面から3発の銃弾を受けて戦死致しました。

その当時の様子がお墓の裏に書かれています。

そして、祖母の兄は中国に子供を残し日本に帰国、戦後、中国に残した子供を探しに行っていました。

そして私が小学6年生の時に中国残留孤児として見つかりニュースにもなりました。

そういった環境で育った私は、自然と戦争について考える様になっていました。

ある時に衝撃的なこんな事がありました、毎年ホストファミリーとして千葉大の大学院の留学生を受け入れた時に、世界中の様々な国の学生さんと、いろんな話になり留学生の方から「なんで日本の若者は戦争の話をしようとしないんだ!」と聞かれ、更に「日本の学生は大学まで来ているのに戦争自体知らない学生がいるなんて考えられない!」とまで言われました。

海外の学生さんは、しっかりと戦争についての認識もあり、それぞれの意見をしっかりと持っていました。

私も小さいころから、話を聞いて育っていましたが、核家族の進んだ日本では祖父母から昔の話を聞く事も少なく、私たちの親の世代は貧しかった戦後の話はあまりしたがらない傾向にあります。

だから、私たちの世代も、あまり戦争の話をしないのではないかと説明しました。

でも、我が家は違って母もよく戦後の話をしてくれました。

なので、私もその方々と戦争のこと世界平和の事の、お話をする事ができました。

もうひとつは、先日の取材で、川名さんとお話をしている時に、私が全国を巡るときに、戦蹟をお参りする事を話しましたら「若い石井さんから、まさかそんな話が出るなんて思いもしませんでした。ありがとうございます」と言って下さいました。

論説員まで、された川名さんがおっしゃられる様に、多くのみなさんは、もう過去事で関係ない様に思っている方が多いのではないでしょうか?

例えば、こうして日記に書きますとアクセス数がおもいっきり下がりますし、たいがいコメントもありません。

何か触れられたくない話題になっているみたいです。

でも、私たちの世代も過去の戦争に目を剥け、少しでも知っていただき、考えていただけたらと思います。

私たちの世代は戦争を直接は知りませんが、いまは戦争を直接体験した方々から直接お話を聞かせていただけるギリギリのところまできています。

どうか、お話を聞いていただき、私たちの世代が今度は次の世代へ語り継いでいきたいと思います。

これから、終戦の日にかけても、いろんな番組が放送されます。

たまには、少し戦争について、世界平和について、考えてみましょうねo(^∇^o)(o^∇^)o