5年前、私が函館に通っていた時、沖縄のりこさんに「昔に函館の大学に通っていた頃、ジョリというお店にジミーさんというアルビノのマスターが働いて私も通っていたんですよ♪」と教えていただきました。
実は、りこさんが函館の大学に通っていた時に、明美さんが友達から「昨日、○○にいたよね!」とよく間違われたのが、りこさんでした。
そして、函館に行った時に初めてジョリに行って偶然に出会ったのが、ジョリの2代目オーナーのともさんでした。
ともさんも、ご自身が小学校3年生の時に、突然!ピンク色の「ジェリージョリーフィッシュ」(地元の人達は短縮して「ジョリ」と言います)というお店ができただけでも、あの当時としては衝撃的だったのに更に、そのピンク色のお店の中から真っ白な人が出てきてお店の前を掃き掃除をしている姿は今でも忘れられぬ思い出として残りました。
その数十年後に、ともさんご自身がジョリの2代目オーナーとなりましたが、その頃にはジミーさんは辞めていませんでした。
私が交流会の会場探しをしている事を知った、ともさんが「うちのジョリを使いなさい」と言っていただいた事も本当に何かのご縁だと思いました。
そして第1回 函館アルビノ交流会をジミーさんが働いてたジョリで開催する事になり、出会ったのが明美さんでした。
そして、明美さんの先輩だったのがジミーさんだと言うことを知りました。
函館盲学校時代に一緒に通っていたお話を教えていただきました。
そして、ジミーさんがジョリを辞めて独立してお店を持ち、残念な事に閉店し、他のお店で働いていた時にご本人は原因も知らぬまま亡くなられました。
今となっては、はっきりとした事は分かりませんが死因からすると、どうもHPSだったようです。
更に明美さんが私との出会いの後にネットで調べていたら、HPS患者会がヒットして、問い合わせをして代表のヨハンナさんとメールでやりとりをしていたら、どうもヨハンナさんが函館出身だと言うことが分かり、更にヨハンナさんが中学部だった頃に幼稚部に通っていたのが、明美さんとお兄さんとジミーさんたちで、当時アルビノ当事者として年長だったヨハンナさんが、他校の子たちから通学の時に石を投げられたりした時に明美さんたちはヨハンナさんのスカートにしがみついて歩き、ヨハンナさんが他校の生徒を睨みつけ追い払っていたそうです。
明美さんからのご依頼で、私は今は東京に住むヨハンナさんとお会いしました。
ヨハンナさんからも、ジミーさんの当時のお話をお聞きして「よく鼻を垂らして、私のスカートにしがみついて歩いていて私がジミーに『鼻水をつけるな!』とよく言ったもんです」とお聞きしました。
昨日、函館アルビノ交流会に参加して下さった、明美さんが大変お世話になった寮母先生がジミーさんの事を詳しく教えて下さいました。
なぜ?ジミーさんがジョリに初代マスターとして働けたかというのは、寮母先生のお友達が当時、初代ジョリとカリベビ(カリフォルニアベイビー、地元では「カリベビ」と言います。)の初代オーナーで、寮母先生が学生時代から料理が得意で味覚に鋭かったジミーさんを紹介してジミーさんが勤める事になったそうです。
ジミーさんは盲学校時代から、先生に「せっかく盲学校に入ったんだから鍼灸師の資格を取ればいいのに」と強く薦めましたが、ジミーさんは「俺は料理人になって自分の店を持つんだ!」と言っていてはっきりと断ったそうです。
ジミーさんはとても味覚も鋭かったそうで、ある日に寮母先生が宿直の時に、忙しさにまかせてインスタントラーメンを夕食として出した事があったそうです。
その時に、さすがにそのまま出すのはかわいそうなので、家の冷蔵庫に残っていたネギを刻んで入れて出したそうです。
その時に、寮生のジミーさん以外全員が「美味しい♪」と言って食べたのに、ジミーさんだけが「先生このネギ古いよ!味が悪い!」と、古いネギを見抜いたそうです。
ジミーさんに先生が「料理人になるなら調理師免許を取ってからでも遅くないでしょ?」と言った事に対し「うちは貧乏だから、親にこれ以上の負担はかけたくない、料理店で働きながら修行を積んで免許を取る」と親を気遣う優しい方だったようです。
ジミーさんがジョリに勤めていた時に給食センターの就職募集があり先生が「給食センターなら給料も安定しているし、ジョリを辞めて給食センターに就職したらどうだ」と言われた時にジミーさんは「誰かが決めて同じ料理を繰り返し作るより、自分でオリジナル料理を作る方が楽しいから俺はジョリは辞めないし、必ず自分の店を出すから」ときっぱり断ったそうです。
明美さんのお話だと、本当にジミーさんは数年後にジョリを辞めて独立してお店は出したけれど、数年後に閉店してしまった時に「給食センターも良かったかな~」と、ぼそっと言った事があったそうですが、その後もご自身で飲食店の仕事を探して働いていたそうです。
その頃に亡くなられたそうです。
それも、前日まで奥さんと話を普通にしていたらしく、突然に翌日に亡くなられたそうです。
最後の最後までご自身の生き方を貫いて生きたジミーさんの人生でした。
私が全国でバラバラに出会った方々からのご縁が、こうして一つの線として繋がりました。
ひとりの人生
人は「だったひとり」というけれど、こんなにもドラマチックな人生を最後まで生き抜いたジミーさんの人生は私たちには想像もつかない駆け抜けた人生だと思います。
アルビノを生きるの発売で、私たちがたまたまご縁で載せていただく事になりましたが、昔も今も全国そして世界のどこかでご自身の人生を生き抜いている仲間たちがいます。
それは、本のページには、1ページも載りません。
でも、人の人生はページ数の多さではなく、ご自身がいかに自分の人生と向き合い受け入れて、自分で自分の人生を決めて生き抜いたかだと思います。
アルビノを生きるには、載ることがなかった多くの皆さんの生き様を、どうかこの本から感じて下さいね。
