新居浜で種まき | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

今治の翌日は、新居浜へ移動。

新居浜といえば別子銅山。標高750mの山の中にいまも存在する産業遺産群は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる。かつて5000人が暮らした天空都市の面影が、300年の歴史を物語る。

このたびは、立ち寄る時間がなかったが、同じテーブルに歴史遺産を紹介しながら、新居浜愛を熱く語る人がいて、感じ入った。

 

内外情勢調査会新居浜支部の講演会(19日)。ここも男性会員のみ。

講演中の反応はおとなしかったが、終わってから声をかけてきた人がいた。

その人は、病気で長期の寝たきり状態から奇跡の復活を遂げたと教えてくれた。だが、実の兄との関係がギクシャクしているという。

立ち話だったが、濃密なことばのやり取りだった。

ボク自身が、ぎくしゃくした人間関係の体験談を披露したので、語る気持ちになったのだろう。

 

この日は、中西龍さんのことばで人生が変わった話をした。

それを聞いて、自分の体験を語る気持ちになったようで、講演のわずか1時間後に長文のメールが届いた。

新居浜市役所総務部長の高橋聡さんからだ。

「村上先生のお話に感じ入って、お伝えしたくてしょうがなくなってしまいました」とメールをくださったのだ。ボクも内容に共感したので、ご本人の許可を得て、その趣旨を紹介する。
 

村上先生がご講演の中でおっしゃったように、私にも自分の人生を変えてくれた言葉がたくさんあります。
長くNHK松山放送局でアナウンサーをしておられた八木健さんにあてて5年ほど前、手紙を書きました。

中学生の時以来、ずっとしたためていた思いを50も過ぎてから手紙にしてお送りしたものです。

中学生のとき、オフコースのコピーバンドをしていたのですが、FMでオフコース特集を放送していた八木さんに電話をして、譜面をもらえないかと、突然電話してお願いをしたのです。一面識もない中学生の頼みを無下にせず、「頼んでみてあげる」と取り合ってくださったのです。その後、「頼んだみたけど、著作権の問題もあるから、楽譜が本になるのを待ってみて」と連絡がありました。

その後、大人になってから、八木さんは、本当に頼んだわけでなく、少年の気持ちを傷つけないように対応してくださったのだと推測出来ました。

人と関わることの多い仕事についた今、相手の気持ちを汲み取り、その人のために何が出来るか、どうすれば喜んでもらえるかということを、いつも考えています。そう思えるのも、中学生の時の八木さんとのやり取りだったのです。

その後、しばらくして八木さんからお返事をいただきました。オフコースの件は覚えていなさそうでしたが、高橋さんの人生に何かしら良い影響を与えたのならうれしい、というような内容でした。
 

私は少年期から歌や映画が好きで、言葉にはとても関心を持って生きてきました。
同じ歌や映画を何度も聞いたり見たりして、何度も涙を流します。人前でその話をしながらグッと来てしまって話せなくなることもありました。歌も映画もそうですが、言葉の持つ力はすごいものだと思っています。
そういうこともあって、いつのころからか、気になることばがあったら書きとめています。
そのファイルのタイトルは「生きて死ぬこと」です。その由来が、そのファイル一番最初の以下の文です。
青年期に発掘調査に携わり、いくつかの現場を経験した。そのひとつに、当時、ミカン山になっていた現場がある。周辺の環境からみて弥生時代あたりという予想で調査をしていたが、上の層から近代の墓が出てきて、十数体の遺骨が見つかった。保存状態が良かったのか、頭蓋骨に髪の毛が残っているものもあった。土葬であったということだろう。
その時の感情は鮮明に覚えている。人はたった百年で死んだこと(生きていたこと)すら忘れられてしまう存在なのだという何とも言えぬ悲しさだった。

だから、親や先祖を大切にしないといけないという気持ちも湧いてきはしたが、自分の子孫が永遠に続くなどというのは妄想で、偶然の積み重ねでしかない。

けれど偶然がなければいつ途絶えても不思議はなく、そう考えると、先祖が努力してどうにかなったものでもなく、先祖を敬うということにたいした意味はないのではと思った。
所詮、「人の命はそのようなもの」という意識が青年期の心に小さな芽のように吹き、感性の土台に根を張ってしまったことが、死をおおごとに思わない人格を作ってしまい、今に至っている。

小学生の時に、道後にあった動物園の象の花子が死んだ。別によく見に行っていたわけでもなく、そこまで愛着があったわけでもないのに、そのニュースを見て夜じゅう泣いて親を困らせた。その翌日動物園まで行き、入場時間を過ぎていたのに無理を言って入れてもらって檻の前を訪ねたことを覚えている。花子の魂と私がどこかでつながったのかもしれない。
これも私が自分を慰めるための身勝手な想念かもしれませんが、肉体の死がすべてではないという考え方はとてもよく理解できる。
私は、死ぬことを記憶するよりも、生を受けてそれを全うしたことを愛で、喜びをもって次の世界への旅立ちを祝いたいと思う。

 

八木さんに出した手紙も添付してあった。拝読して、高橋さんの感性を作り上げた「なにげないこと」の大切さを想った。そのとき、八木さんが素っ気ない対応をしていたら、その後の高橋さんの感性は育まれなかったかもしれない。

こういう感性の方が、行政の中核にいる新居浜市の未来は明るいように思った。

 

別子銅山の面影