涙がとめどなく溢れた。
単に哀しいから切ないから泣いたわけでもない。
人間の愚かさ、たくましさ、優しさに感情が動いたからのような気がする。感情が揺さぶられる映画だった。
公開中の映画『ラーゲリより愛を込めて』は、辺見じゅんさんの『収容所(ラーゲリ)から来た遺』が原作だ。シベリア抑留となった山本幡男さんと実在の人を描いたものだ。
山本さん役は、二宮和也さん。彼自身が「過小評価も過大評価もせず、フラットに演じたい」と語っているが、過酷な物語だからこそ、悲壮感に陥らない二宮さんは適役だと思う。
共演した松坂桃李さんも「二宮さんは、脱力の天才、ここまで抜け感のある人を見たことがない」と讃える。
きっと、山本さん自身が、そういう飄々としたところがあったのだろう。
シベリアには、およそ60万人が、最長11年間抑留され、6万人が亡くなったとされる。
極寒と飢え、重労働という「三重苦」。さらに四つ目の苦、日本人同士の相克があった。自分たちを不法に抑留しているソ連を「祖国」として礼賛する者もいた。礼賛者は、敗戦まで「反ソ」的な立場にいたと思われる者を断罪し、人民裁判のような場でつるし上げた。
ロシア語が堪能だった山本さんは、満鉄調査部での北方調査をしたことがスパイ容疑とみなされ、収容所生活が長引いた。
だが、山本さんは、極限の管理下の収容所内でも「日常の営み」を忘れなかった。
日本文化の勉強会も主宰した。万葉集や仏教まで豊富な知識をわかりやすく語った。まるで「長屋のご隠居さん」が語るように。
アムール句会という俳句サークルも運営した。
他にも演劇、野球、文芸誌や新聞作りなど、絶望の中で希望の灯を保ち続けた。
人間性を容赦なく奪う劣悪な環境の中でも、山本さんは、「帰国するその日まで、美しい日本語を忘れぬようにしたい」と何度も言っていた。
しかし、山本さんは、病に倒れ、45歳で亡くなる。
病死する前、家族にあてたノート15ページ分の遺言を書いた。
日本語の文書はスパイに繋がるとソ連側に没収されてしまう。
そこで、仲間たちは手分けして暗記し、帰国後に遺族に伝えた。
中でも、子どもたちに与えた遺書は心に響く。
「光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは、将来、東洋西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化…人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ」
この遺言は、山本家の子どもたちだけでなく、後世の私たちすべてに伝えるべく書かれたものではないかと推察する。
シベリアの辺境の地から、祖国日本の未来を案じた山本幡男さんの遺志をしかと肝に銘じたい。
(山本幡男さんご本人の写真)