金子みすゞの忘れ形見、上村ふさえさんの訃報が届いた。
亡くなられたのは、9月29日。享年95。
当日の朝、不調を感じたふさえさんは、かかりつけの医院まで、
自分で歩いて行ったそうだ。入院の必要があるということで、
大きな病院に入院し、その日のうちに眠るように旅立たれたということだ。
みすゞは、3歳のふさえさんのことばを書き留めていた。
『南京玉』と題された手帳には、
昭和4年10月ごろから昭和5年2月までの間、みすゞが亡くなる1ケ月前まで、ふさえさんの口から出てくる言葉を漏らさぬようにひとつひとつ書きとめていた。
まえがきにこう書かれている。
「なんきんだまは、七色だ、一つ一つが愛らしい。
尊いものではないけれど、それを糸につなぐのは、私にはたのしい。
この子の言葉もそのやうに、一つ一つが愛らしい。」
『南京玉』の最後に「このごろ房枝われと遊ばず」と書かれていたことで、ふさえさんは母から愛されていなかったと思っていた時期があった。
だが、「みすゞ現象」ともいえる拡がりの中で、母を受け入れていった。
全国各地で開かれるみすゞ関連のイベントに、こまめに足を運ぶうち、
母の詩が多くの人に支持されていることを知り、
気持ちが変っていったのだ。
ふさえさん自身、活力をもらい元気になっていった。
ふさえさんは『南京玉』が出版される際のあとがきに、「今度会ったら、ほめてくださいますか」と書いた。
ひさしぶりに母と対面し、母から存分の褒め言葉をかけてもらい、親子水入らずの会話を楽しんでいることだろう。
ふさえさんとは、みすゞ関連のイベントのたびに、お会いした。
気心の知れた仲間と一緒に食事をしたこともある。
忘れられないのは、初対面のとき。
ボクの顔を見るなり、「いつ見ているわよ、ズームイン朝」。
当時、ボクは「おはよう日本」を担当していたのだが、
ふさえさんの中では、NHKも日テレもなかったのだ。
常にたくまざるユーモアの持ち主だった。
恥じらうような笑顔が素適な人だった。
(2014年9月)
(2002年)
(2014年9月)