赤塚不二夫さんが晩年の日々を綴ったエッセイに、
晩年傍らにいることが多かった編集者の証言の組み合わせ。
興味深く読んだ。
赤塚不二夫は、相次ぐ病気や怪我をユーモアにしてしまう。
転倒して前歯を折り口の周りが腫れたとき「まったくひどい顔。猿の惑星みたい」と他人事のように喜んでいた。
鎖骨を折ったギブス姿も「ランドセルしょってるみたい」だと笑っていた。
ベットから落ちて右目上を8針縫いお岩さんのように腫れた顔を見て「KO負けのボクサーみたい」とケロリとしていた。
すべての災難が、赤塚フィルターによって笑いに変えられていった。
どんなことも「これでいいのだ」という魔法のことばで、
佳き事に塗り替える才能を持っていた。
赤塚不二夫は「程」を知らなかった。
なにごとも「ほどほどに」出来なかった。
仕事はもとより、酒もタバコも遊びも。
究極の人見知りなのに、人が集まるのが好きだった。
来客を大歓迎して、ありとあらゆる手段でもてなすが、
来客が帰るとき「じゃあね」「またね」も言わず無視していた。
稀代の寂しがり屋だった。
自分が生み出したキャラクターで一番おかしなものは「赤塚不二夫」だと、自分でも認めていた。
赤塚不二夫がいなくなって14年。
そのホームグランドの建物が取り壊されることになった。
1970年、「フジオプロ」は、中落合にあった古い木造家屋に引っ越してきた。78年に鉄骨造地上3階建ての仕事場兼赤塚不二夫の自宅に建て替え、改装を繰り返しながら40年あまりが経った。
数年前よりなぞの雨漏りに悩まされ、手に負えないほどの老朽化が進んだため、ついに中落合の社屋を取り壊すことになった。
赤塚を中心にいろんな人と楽しいことをして、たくさんの作品が生まれた場所「フジオプロ」。このままただ壊してしまうのはもったいないと感じ、建物「フジオプロ」とさよならする前に、何か一緒に楽しいことをすることこそフジオプロ的なのではないか…と「バカは真面目に」をモットーに、フジオプロ旧社屋で展覧会やイベントを開催することになった。
「フジオプロ旧社屋をこわすのだ展」超人気で11月20日まで会期延長したが、それも、あっという間に予約いっぱいになったそうだ。
赤塚人気は、死後14年経っても、まったく衰えを知らないのだ。
赤塚ファンも「程」を知らない人が多いのだ。