「折々のことば」を朝日新聞一面に連載している鷲田清一さんが、なんと、ことばが苦手、というか、嫌いな人間なんだそうな。
人と話すことは、読むとか書くよりしんどい。
話したくないときでも、黙っていると場から浮いてしまう。
メールが来たらすぐ返さないと、悪くとられてしまう。
話したくないときは黙っていて、話したくなったら口を開くのがラクだと思うのに、なぜかいつも話してないといけないような空気みたいなものがある。それを敏感に感じると、ことばって面倒くさいと思う。
たいていの場合、ことばは、過剰か過少であり、ピタリ、ズバリはまずない。あんなこと言わなきゃよかった、もっと別の言い方をすればよかったと思うことが多い。
だが、しかし、もしことばをもっていなければ、自分がどんな感情なのかわからないままだったろう。ことばがあるから、嬉しい、悲しい、恥ずかしいと、自分の気持ちを細かく切り分けていける。ことばが、より立体的、襞のあるものに育ててくれる。
鷲田さんは、
ことばを「だんまり」「つぶやき」「語らい」の3つに分けて考えてみる。
今の世の中に必要なのは、「話し合い」より「黙り合い」。 黙っていることに耐えられない人が増えているのが心配。
自分のことばを断片的ながら、人に差し出すのが「つぶやき」。すらすら出なくていい。出したりひっこめたりの感触が大事。
つぶやきが語らいに繋がる。互いの違いが繊細に見えるようになるのが「語らい」だ。新たな自分が生まれるチャンスだ。
「語らい」の時、大切なことは、相手が語り尽くすまで「待つ」こと。
相手の想いを自分の枠の中に収めようとしないこと。もつれることばを受け止めてもらえたことが大きな意味を持つ。互いの存在の肯定をしながら、ことばの意味より肌理を大切に。
ことばが、ひどくアンバランスになっている。二極化している。
異様なほどにトゲトゲしく、毒々しく、ひやひやするほどか細く、途切れそうになっている。
まるで痰を飛ばすようにことばを吐き捨てたり、自ら責任をとることのない匿名のことばが礫のように行き交う。
ことばとの距離の取り方がいびつになっている。
ことばは、本来、含みがあったり曲折があったり、肌理や奥行きがあったり、なんとも含蓄に富むはずのもの。それが「極単」な形でしか出てこないのが現状だ。
ことばの「荒れ」と「枯れ」から恢復する術を、丁寧に考えたい。