論語知らずの論語塾64~中庸の難しさ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

人生は、自問自答の連続だ。

孔子自身も、その弟子たちも、自らに問い、自ら答えを求めてきた。

「朝に道聞かば夕べに死すとも可なり」。

孔子が「死」ということばを用いるのは珍しい。

何のために生まれてきたのか、死ぬまで問い続けよと教える。

生きる意味に、常に意識を向けていよと強い口調で迫る。

己を磨いていれば、磨いている人に出会える。

自分に見合った人にしか出会わない。

 

孔子は「中庸の徳」も説く。

「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」中庸に至れば、最高だという。

やれ右だ、やれ左だと極端になるのは簡単だ。

だが、中庸ほど難しいことはない。

高橋源一郎さんは、「中庸とは、歴史の真ん中」と考える。

時代が移り変わっても、変わることのない本質的な正義を指す。

だから「流行」ばかりに目を奪われず「不易」を見定める必要がある。

「中庸」も自問自答し続けることになる。

 

渋沢栄一は、来る人拒まずで、すべての訪問客に面会した。

「玉石混交して、一様に断り、門戸を閉ざせば、礼を失するのみばかりか、社会に対する義務を完全に遂行出来ない」とまで言い切っている。

かつて中国の王様で、ご飯の途中であろうと、髪を梳いている途中であろうと、訪問客に応対した人がいたという故事を紐解いている。

富豪や名士で、うるさいとか億劫だと、来客を厭う傾向があるのは、国家社会に徳義上の義務をまっとうしていないと批判している。

富豪は、自分一人で儲けたわけではない。社会に儲けさせてもらったようなものだ。だから徳義上の義務として、社会に尽くすことを忘れてはならないのだ。

ここに「論語と算盤」の真骨頂がある。

「中庸」がある。

「生まれてきた意味」がある。