論語塾の塾長、安岡定子さんと対談してきた。
このたび、安岡さんは、
公益財団法人、郷学研究所・安岡正篤記念館理事長に就任した。
その財団が発行している季刊誌『郷学』の誌上対談の相手に指名された。 理事長就任にあたり、大幅リニューアルすることになり、新企画に登場という光栄な役回りをいただいた。
きょうは、「古典から受け継ぐ」「歴史から学ぶ」「ことばの力」などをテーマに2時間も対談した。
その中で、いまこそ、否定批評分断ではなく、人の心を繋ぐ「嬉しいことば」が大切と、ボクの日頃の主張を話したら、安岡正篤が「喜神を抱いて」ということをよく言っていたと、定子さんから教えてもらった。
正篤は、こんなふうに言っている。
「喜神とは、喜ぶ心であります。われわれの心の働きにはいろいろあって、その最も奥深い本質的な心、これは神に通ずるが故に『神』と申すのであります。人間は如何なる境地にあっても、心の奥底に喜びの心を持たなければならぬ。これを展開しますと、感謝、或は報恩という気持ちになるのでありましょう。心に喜神を含むと、余裕が生まれ、発想が明るくなります。また、学ぶ姿勢ができます。
実例で言えば、人から謗られる、あられもないことを言われると、憤るのが人情であるが、たとえ憤っても、その人の心の何処か奥に、「イヤこういうことも実は自分を反省し磨錬する所縁になる。そこで自分という人間が出来て行くのだ。結構、有り難いことだ。」と思うのです。人の毀誉褒貶など虚心坦懐に接すれば、案外面白いことで、これ喜神です。 』
「喜神」とは神社仏閣に祀ってある神ではなく、精神の神(しん)、つまり心の最も奥深い部分を指す。自分の心の中にいる。
その喜神を抱いていれば、どういう立場に立たされようと、どんなの理不尽なことが起ころうとも、それに心を乱されることなく、心の奥深くでいつも喜びの気持ちでれば、想念が変わる。
これこそは人生の極意であり、特に人の上に立つ者が身につけておかなければならない姿勢ではなかろうか。
喜神を抱いていれば、目先のことに動揺することなく、一見トラブルにしか見えないことも甘んじて受け入れ、誠心誠意改善に努力することができる。人を非難することなく、清々しい気持ちで、喜々として取り組めるはずだ。
まさに喜神を抱くが如く、どんなことも笑顔で受け入れる安岡定子さんとの対談は、心喜ぶ時間であった。
この対談は、4月ごろ発行予定の『郷学」に掲載される予定。