渋沢栄一は、落語好きだったそうだ。
孫たちは、覚えたての『寿限無』を祖父の前で披露したそうだ。
目を細める渋沢翁の顔が目に浮かぶようだ。
当時のことを孫の鮫島純子さんは鮮明に覚えている。
渋沢が亡くなる年、昭和6年には
自宅に四代目柳家小さんが来たという。
四代目小さんは、「曲がりたる心あるものは落語を止めるべし」と
一家言を持っていた。あだ名をつけるのに卓越したセンスがあり、
五代目小さんの前座名をその風貌から「栗之助」と名付けた。
五代目小さんが、九代目小三治を襲名し真打披露公演をしていたさなか、高座から戻りお茶を飲み湯飲みを置いたところで倒れ、そのまま亡くなったという。
五代目小さんの孫の柳家花緑さんを、
渋沢ゆかりの場所で、鮫島純子さんに引き合わせた。
ところは、日比谷・松本楼。玄関には、渋沢栄一揮毫の看板がある。
渋沢が、大正13年4月に揮毫したものだ。
日比谷公園設計の任に本田清六を指名したのも渋沢だ。
四代目小さんが渋沢邸に来てから、およそ90年の時を経て、
ゆかりの対面となった。
渋沢栄一に面差しがよく似た純子さんの長男・員昭(かずあき)さんも
落語に詳しいようで、話に加わり、話も弾む。
純子さんは、花緑さんのことを「感じのいい方ね。努力家ね」と評していた。
その純子さん、今月26日で満98歳。
頭脳明晰、言語明瞭、健康長寿、恐れ入るばかりだ。
(松本楼に現存する渋沢栄一揮毫の看板の前で
花緑さんと純子さん)
(左から松本楼の小坂文乃社長、ムラカミ、花緑さん、
純子さん、木村まさ子さん、鮫島恭子さん、鮫島員昭さん)
(互いに著書の交換)