母は、几帳面で丁寧に生きた人だった。
まったく息子には、その遺伝子が伝承されていない。
このたび、母の几帳面さを物語るものが出てきた。
村上久夫の妻・田鶴子は、大前家から嫁いだ。
久夫と田鶴子は、親戚筋だった。
久夫の祖父秀二が、
疎開で丹波にきていた田鶴子を見初めたという。
昭和25年11月、2人は結婚する。
そして、昭和28年6月、待望の長男・信夫が誕生する。
田鶴子は、妻として、母として、一分の隙もなく処した。
およそ家事に手を抜いたことがない。
食事、洗濯、掃除は言うに及ばず、
若い頃は、着物の洗い張り、洋服の仕立て、繕い…枚挙に暇がない家事をこなしていた。
家計簿を毎日、欠かさずつけていた。
信夫は、1円でも合わないと、
ずっと計算していた母の姿を覚えている。
その家計簿が大量に残されていた。
ほとんどが、三菱銀行の粗品である。
こと細かに、収支が書かれている。
残されているもので、いちばん古い家計簿は、昭和41年のものだ。
当時、毎月1日に、久夫から生活費が渡っていたようだ。
その金額は50000円。
3人家族がつましく暮らしていたことがわかる。
この家計簿は、村上家の歴史でもある。
母のやりくりがあっての無事がある。
それにしても、
月々5万円で生活していたことは、このたび初めて知った。
母は、晩年、大学ノートに日記を書いていた。
特別大きな出来事はなかったはずなのに、
日々の何気ないことを丁寧に書いている。
あたりまえのことをあたりまえだと思っていなかった証だろう。
晩年の母の字は「みみずの這ったような字」で判読不可能だが、
見ているだけで涙腺が緩む。
それは、孤独や痛みと向き合いながら、
「懸命に生きた証」を残そうとしたのだろうと想像出来るからだ。
(息子の誕生日の家計簿 昭和41年)
(大学ノートに書かれた日記 2012年)