ファミリーヒストリー 村上家編④ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

母は、几帳面で丁寧に生きた人だった。

まったく息子には、その遺伝子が伝承されていない。

このたび、母の几帳面さを物語るものが出てきた。

 

村上久夫の妻・田鶴子は、大前家から嫁いだ。

久夫と田鶴子は、親戚筋だった。

久夫の祖父秀二が、

疎開で丹波にきていた田鶴子を見初めたという。

昭和25年11月、2人は結婚する。

そして、昭和28年6月、待望の長男・信夫が誕生する。

田鶴子は、妻として、母として、一分の隙もなく処した。

およそ家事に手を抜いたことがない。

食事、洗濯、掃除は言うに及ばず、

若い頃は、着物の洗い張り、洋服の仕立て、繕い…枚挙に暇がない家事をこなしていた。

家計簿を毎日、欠かさずつけていた。

信夫は、1円でも合わないと、

ずっと計算していた母の姿を覚えている。

その家計簿が大量に残されていた。

ほとんどが、三菱銀行の粗品である。

こと細かに、収支が書かれている。

残されているもので、いちばん古い家計簿は、昭和41年のものだ。

当時、毎月1日に、久夫から生活費が渡っていたようだ。

その金額は50000円。

3人家族がつましく暮らしていたことがわかる。

 

この家計簿は、村上家の歴史でもある。

母のやりくりがあっての無事がある。

それにしても、

月々5万円で生活していたことは、このたび初めて知った。

母は、晩年、大学ノートに日記を書いていた。

特別大きな出来事はなかったはずなのに、

日々の何気ないことを丁寧に書いている。

あたりまえのことをあたりまえだと思っていなかった証だろう。

晩年の母の字は「みみずの這ったような字」で判読不可能だが、

見ているだけで涙腺が緩む。

それは、孤独や痛みと向き合いながら、

「懸命に生きた証」を残そうとしたのだろうと想像出来るからだ。

 

(息子の誕生日の家計簿 昭和41年)

(大学ノートに書かれた日記 2012年)