土を踏み、風に祈る~辰野和男さんを偲ぶ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

朝日新聞の1面コラム「天声人語」を、13年あまりにわたって執筆した元朝日新聞論説委員の辰濃和男さんが今月6日亡くなった。

87歳だった。

「楽しみながら歩けば風の色がみえてくる」。

各地で出合った自然の豊かさを文章で表現した。

北海道・知床の自然保護のため寄金を募り、

土地を買う「知床100平方メートル運動」を「天声人語」で紹介した。

沖縄もライフワークだった。

日本復帰前の沖縄をルポした「沖縄報告」の取材班に参加し、

復帰運動や米軍基地問題、歴史や文化を紹介した。

2015年から今年4月までたびたび沖縄を訪れ、

体調を崩した後も車いすで取材を続けていた。

 

1930(昭和5)年、東京・深川の生まれ。5人兄弟の末っ子だった。
3歳で世田谷に引っ越した。田畑や森がたくさんあった。
あたりをかけずり回っていた。チンドン屋について回るのが好きだった。ついて行くと、何かいいことがあるような気がしていた。
歩くのが苦にならなかった。
文章を書くのも好きだった。読書も好きだった。
いずれは、もの書きになりたかった。
思いがかなって、新聞記者になった。
 

ボクが辰野さんにインタビューしたのは、

2006年、『歩き遍路 土を踏み風に祈る』を出版されたころ。

そのことを、ボクは自著『ことばのビタミン』に書いた。

その中から抜粋。

辰野さんが、最初に遍路旅に出たのは、44歳のとき。

遍路旅では重病の人、自殺を望む人、罪を犯した人

いろんな境遇の人に出会う。

そういう人々の信仰を知らずに、日本が書けるかと思った。

しかし、記事を書くために歩いたという後ろめたさがあり、

定年退職後、また歩こうと思っていた。

3回の遍路旅、それぞれの出会いがあった。

1回目は、人との出会い。2回目(68歳)は、自分との出会い。

そして、3回目(73歳)は、自然との出会い。

回を重ねるたびに、体力は落ちて、歩くペースも遅くなったが、

何物にも束縛されない歩き方が出来るようになった。

歩きながら、風の音が聞こえてくるようになった。

その音を聞きながら歩くと、

大自然の営みに感謝する心が芽生えてくる。

人間は特別な存在ではないと気づく。

「祈り」と「感謝」の存在が大きくなっていく。

とどのつまり、お遍路とは、「土を踏む」「風に祈る」ということだ。

土を踏んで歩き、ただただ宇宙の営みにぬかずき、

黙って歩き、黙って祈る。
そうすると、どんなことも「ヨカッタヨカッタ。セイカイ。ダイセイカイ。」

と楽天的に思えてくる。

辰濃さんの文章には、よくカタカナ表現が登場する。

率直な思いを、やや照れながら語る、

そんな気持ちがカタカナに表れているような気がする。

お遍路さんが、地元の人から受ける「接待」。

接待を受けると、支えられて歩くことに対する感謝の念が沸く。

情けが力をくれる。

《支える》《助ける》《励ます》について思いを深めることになる。

生きる上で、一番単純で大切なことに気づかせてくれる。

そして、新たな境地を抱いて、遍路旅が終わるころ、

晴れやかな顔になって、四国を後にする。

ひきこもりやうつから脱け出したくて歩いている人、

死ぬ覚悟で歩いている人を、四国の人たちが救っているとも言える。

「接待」の波及効果は、ほかにもいろいろある。
数々の接待を深く心に留め、

「ありがとう」と本気で思える瞬間を数多く持ちたいと思えるようになる。「ありがとうの心を持ち続けることは極楽人生を送る秘訣になる」。

感謝の気持ちは、身の回りや愛用しているものに広がる。

自然に接待返しの気持ちが沸いてくる。

空や風や火や水や自然への感謝も広がってくる。 

 

ボクがインタビューしたとき、

辰濃さんは、「88歳の88ケ所巡りもいいなぁ」と言っていた。

享年87。自らの肉体では叶わなかったが、

いま身軽になり、遍路道を浮遊しているかもしれない。