論語知らずの論語塾(1日)。
母がよく「おついたち」と口にしていた。
気分が改まる日でもある。
さてさて、孔子の教えを、一口に言い切るならば「恕」。
秀でた弟子の子貢が孔子に、
「先生、たった一語で、一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる言葉がありますか」と聞いた。
孔子は、「それは、恕(じょ)かな(其恕可)」と答えた。
孔子が「恕なり(其恕也)」と断定せず、
孔子が「恕なり(其恕也)」と断定せず、
「恕か」と曖昧(あいまい)に答えたところに、孔子らしさがある。
「自分がされたくないことは人にはしてはならない、それが恕だ」と、
孔子は説いた。つまりは思いやりということである。
他を受け容れ、認め、許し、その気持を思いやる。
自分のことと同じように人のことを考える。
そのことこそ、人生で一番大切なことだと孔子は教えたのである。
他を受け容れ、認め、許し、その気持を思いやる。
自分のことと同じように人のことを考える。
そのことこそ、人生で一番大切なことだと孔子は教えたのである。
「恕」と似た漢字に「怒」がある。
口と又を入れ替えただけで、正反対の意味になる。
実は、孔子は、「恕」だけの人ではなかったようだ。
政治家には怒っていた。
自分なら1年で成果をあげることが出来ると歯がゆさを覚えていた。
弟子の顔回のほうが「怒りを遷さず」と、八つ当たりしない人だった。
たぶん孔子は、自分にないものを持ち合わせている弟子を、
素直に敬していたのだろう。
「恕かな」と断定的に言えないのは、そうありたいと思いながら、
「怒」に走る自分を戒めていたのかもしれない。
この日の話し合いでは、
「小爆発をしておいたほうが大爆発しないで済むかもしれない」
「中途半端ではなく、ちゃんと喧嘩したら、かえって仲良くなれる」
「本気の怒りは恕に通じる」といった意見が出た。
昨今、怒る材料には事欠かない。
聖人君子になれないから怒りもする。
ただ、怒りを被った相手のことも思いやる「恕」の精神は
忘れてはなるまい。