人生を照らす禅の言葉 | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。


先日、講演をさせていただいた鎌倉・円覚寺。

管長の横田南嶺さんとは、今年正月にお目にかかって以来、

親しみを感じている。 

横田さんは、7年前、45歳で管長に就任した。

1964年11月、和歌山県新宮市生まれ。

実家は、鍛冶屋を営み、筏を組む「かすがい」を作っていた。

横田さんは、子どもの頃から、座禅を組んでいた。

筑波大学在学中に出家得度し、卒業後、京都・建仁寺で修行。

1991年から円覚寺僧堂で修行、足立前管長に師事した。

1999年円覚寺僧堂師家(修行僧を指導する力量を具えた禅匠)に

34歳で就任した時点で、後継者と目されていた。

いまは、禅の教えを伝える「かすがい」の役目を担おうと、

説法や法話に力を入れている。この著作も、そうした一環で出された。

難しい禅語が、たとえ話でわかりやすくなっている。

 

円覚寺の坐禅堂に、山本五十六のことばが掲げてある。

「苦しいこともあるだろう。

 言いたいこともあるだろう。

 不満なこともあるだろう。

 腹の立つこともあるだろう。

 泣きたいこともあるだろう。

 これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である」

先日、訪れた湯河原の飯田商店にも、同じことばが掲げてあり、

この偶然とも思えない一致に少なからず、驚いた。

まさに、このことばは、厳しい禅僧の修行心得になる。

 

(飯田商店で見つけたことば)

 

坐禅とは、自分の中にいるもう一人の自分に出会うことだ。

坐とは、土の上に人二つ。

感情のままに押し流される弱い自分。

それを冷静に見つめるもう一人の自分。

修行とは、坐禅とは、自分との対話を続けることだ。

一時の感情に流されないため、問い続ける。

 

幼な心に湧いた「死に対する疑問」から禅の道に入った横田さんだが、

修行を重ねる中で見えてきたことがある。

「水流れて元海に入る」

私たちは、仏心という広い海に浮かぶ泡の如き存在。

生まれたからと言って、仏心の大海は増えず、

死んだからと言って、仏心の大海は減らず。

私たちは、みな仏心の一滴。

死は、この仮の世を去り、もとの本源に帰ることなのだと教えられた。

だからこそ、過去を悔んだり未来を憂えたりせず、

「いま」を懸命に生きることが大切なのだ。

横田さんが師と仰ぐ一人、松原泰道さんは、

「よき人生は、日々の丹精にある」と示された。

横田さんが敬愛する坂村真民さんは、

「同じ日は一日もない生き方をしていけば、

 美や感動が生まれる」と述べている。