赤坂をどりを堪能する | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

和服を誂えた以上、なるべく着る機会を作らねばと、

赤坂をどりに行ってきた。

昭和24年に始まった「赤坂をどり」は、途中中断もあったが、今年55回目。

年に1度、赤坂芸妓の研鑚を披露する大きなイベントだ。

江戸宝暦年間に、参勤交代で江戸に来る各藩の家老たちの遊興の場として、

文字通り「留守居茶屋」が設けられて以来の伝統が、今に受け継がれている。

だが、料理茶屋の数も、芸妓の数も減り、伝統の継承が危ぶまれる。

昭和40年代、赤坂には60軒の料亭があり、芸妓も400人いた。だが平成28年現在、料亭は5軒に、そして芸妓は22人に減ってしまった。

だからこそ、こういう場が大切だし、足を運ぶことも大切だと思う。

 

13人の芸妓の皆さんが、踊りを披露する姿に目を奪われた。

京都に育ったボクも、幼い頃、祖母に連れられて「都をどり」に行ったことを覚えている。

わからないなりに、子どものうちから、

伝統の世界を観ておくことは大事だと、いまにして思う。

 

(赤坂芸妓の総帥 育子姐さんと 喜寿とは思えぬ)

(去年、芸妓初の旭日双光章を受賞)

 

赤坂をどり会長として舞台裏を支えたのは、赤坂の料亭「浅田」の三代目社長の浅田松太さん。1968年石川県生まれ。慶應義塾大学卒業後、都市銀行勤務を経て、家業を継いだ。

浅田の歴史は古く、創業は1659年。加賀前田家と江戸上屋敷を結ぶ飛脚の御用を担ってきた。明治に入って、飛脚業から業態変換を行い神奈川に「浅田屋」という旅館を開業。そして1971年、赤坂に加賀料理の料亭「赤坂浅田」を開業。青山や名古屋にも支店がある。

「お座敷というのは、日本文化のいろんなことが凝縮されている空間です。お料理はもちろん、床を飾る掛け軸、季節の花も、日本の文化だと思います。また、接客係の着物、芸者衆のもてなし、器に描かれる輪島塗の蒔絵などの芸術は料亭が使わなくなると、作っていただける職人の方のお仕事がなくなります。
そういう技術を継承するためにも料亭は営業を続けていかなくてはいけない。次の世代に継承したい日本の大切な文化であるという思いを持って営業しています」という心意気がある。

松太さんは、客に「浅田」の三代目だと知らせることなく下足番として出迎えていた。下足番は15年間務めた。「下足番をしていると、接客係が配膳をする時にどういう風にお盆を持って廊下を歩いて行くか、接客が出迎えをしている時の表情の笑顔がちゃんとしているかとかが見えてくる。客が靴をはく瞬間に、その時の席がどんな感じだったかが、わかるようになる」誰に教わったわけではなく、下足番という仕事を通して、松太さんは、今の時代に求められることを見つけていった。

松太さんが見つけた「おもてなし」のこころ。それは、接客を行う人の「心」。「お客様が店にいるのは、2~3時間のわずかな時間。その時間、接客するスタッフが心身ともにベストな状態であるために準備することがとても大切だと考えています。出迎えするときの身だしなみをきっちり整えること、着物を綺麗に着る、ヘアメイクをお互いにチェックする、笑顔でご挨拶ができていること…。接客や料理の世界には、これでいいという到達点がありません。お客様にさらにお喜びいただくためには、自分はどうしたらいいのかを常に考えながら仕事していくのがすごく大事です。『自分はよくできる』と思った時点でそれぞれの成長が止まってしまいます。常に学び続ける謙虚さをとても大切にしております」

接客に役立てばと、浅田では、茶の湯や日本舞踊の稽古などの研修をしている。「お茶にしても、踊りにしても、お客様の前で披露するようなことはないけれども、本物の日本舞踊に触れると、そこから確実に日本文化に対する興味を広げてくれると思っています。私自身も、稽古に参加しています」

赤坂、料亭、日本舞踊・・・と聞いただけで敷居が高いという先入観を持ってしまう。日本文化を学ぶ気持ちで、節約積立でもして足を運べば、新たな世界が広がるはずだ。

 

(左、真由姐さん 右、浅田松太さん)

(ボクの着物アドバイザー もとじの中野公介さん)