長生きは芸術なり | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

名古屋を代表する実業家、古川為三郎。

明治生まれの小柄な体から、想像もつかない大きな事業を成し遂げた人物だ。

18歳で、養父の貴金属店を再興し、東京・大阪にも進出。

28歳で、九州の炭鉱会社を買収。

31歳で、名古屋大須に映画館をオープン。

その後も、飲食、不動産、株式投資と事業を拡大していく。

戦争で、全てが無になっても不屈の精神で立ち上がり、

レジャー施設、放送通信業も手がけ、その名を世界にも轟かせた。

海外の経済誌『フォーチュン』に世界最高齢の富豪と紹介された。

 

富豪でありながら古川が世間から愛されたのは、

無一文から築いた富を「世のため人のため」と惜しまず使ったからだろう。

人を喜ばせたいという一心が伝わったからだろう。

事業によって得た資産を教育や福祉に投じた。

名古屋大学に図書館、地元小学校へ長年にわたる楽器の寄贈、

名古屋市科学館でのサイエンス講演会への出資・・・

さらには、愛知県共同募金会「赤い羽根募金」の会長として、

100歳になっても襷をかけ街頭募金に参加していた。

 

103歳の天寿を全うした古川だが、3回命拾いをしている。

九州の炭鉱経営権をめぐり、やくざとの争い、

急性肺炎で、棺桶に入ってから息を吹き返したこと、

鉄道事故にあって無傷だったこと。

人知を超えた大きな力によって生かされているとの想いから、

特定の宗教にこだわることなく、菩提寺や各地の寺社への寄進、

世界33ケ国で平和観音像の建立をしている。

 

「長生きは芸術なり」と白寿を迎えたとき記している。

肉・魚・野菜をバランスよく少しずつ何回にも分けて食べていた。

鰻と肉を、毎朝一切れ、必ず食べた。食後にトマトを欠かさなかった。

1日に何服も抹茶を飲んだ。珈琲も毎日飲んだ。

ビールを常温で飲んだ、冷えたものは口にしなかった。

起床、就寝、食事、規則正しい生活をしていた。

よく歩いた。90代になっても百貨店や市場に出かけた。

身だしなみに気を配っていた。

まさに徹底した自己管理は芸術的だ。

 

古川為三郎が生前暮らした自宅が、いま記念館として開放されている。

名古屋の池下駅からほど近いところにある。

数寄屋建築の建物から、四季折々の花を愛でられる庭園を眺め、

古川も愛したお抹茶をいただきつつ、時を忘れられる場所である。

 

(古川為三郎 1890~1993)

(古川為三郎記念館入口)